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『誰がために花は咲く』第四話(第一章 名も無き花~エスターの物語~)

 ゆらゆらと体が揺れる。
 目を開ける間もなく、潮の香りと風が押し寄せてくる。こうして目覚める朝も今日で12日目だ。さすがに慣れては、きた、が、今回の旅に至るまでエスターは海を見たことがなかった。だから、船倉から甲板に上がると、その果ての無い青の光景に、白い波に、未だ、子どものように心が躍る。
 エスターには、まだ、自分の心が躍ることができるとはついぞ意外であったが、子どもの頃のように、海の光景はエスターの世界をたしかに美しくしつつあった。それが錯覚と、分かってはいても。

 船に乗ることになったのは、ヴォーグの提案である。旅立ちの日、エスターは、はじめてこの世がどうできているかの地図を見た。うろ覚えながら、この二年、辿ってきた村や都市、山脈の名をヴォーグに告げると、いとも簡単にヴォーグはその二年の旅の軌跡を地図に導き出した。それで分かったのは、ズームグにテセから至るのには、かなり多くの道筋をガザリアの地を踏まねばならないということだった。

「これはまずいな、ガザリアでは俺もお前も、多少は名の知れた存在だ。旅の邪魔をされるのは間違いない」

 そうヴォーグは言うと、しばしの思考ののち、海に出ることを、さらり、と決めた。テセの港から船を出せば、ガザリアの外海をぐるりと廻ることができる上に、旅程もかなり短縮できる。船になど、まして海での航海など経験のないエスターは、一瞬怖じ気づき、顔を曇らせたが、ヴォーグにこう言われて、不承不承したがうことにしたのだ。

「俺だってどちらかと言えば陸の男だ。だがな、旅を大きく短縮できるのなら仕方なかろう。それに長旅の途中でお前が死んでは、困るのだ、任務を果たせなくなってしまうからな」

 ……というか、いまのエスターの運命を握るのはヴォーグだ。その言に従うしかないのが現実だった。その結果、エスターはいま、海の上にいるわけだったが、揺れに背中の傷が痛むのを除けば、思ったほど、航海は嫌なものでなかった。最初の頃こそ船酔いに苦しんだものの、今では、頭上を飛ぶ海鳥や、波間をはねる魚の群れに見とれる余裕が生まれていた。

 一方のヴォーグは、船の上でも剣や弓の稽古を欠かさない。エスターはこの男を殺して自由の身になり、再びひとりで旅を続けることを、この旅に出てから、幾度となく考えたが、ヴォーグに隙は全くなかった。船員の目もあったし、会話も最低限しかせぬし、何より、その身のこなしには、一国の国境を預かって来た、剣士の威厳と風格があった。エスターはよって、手出しするのは得策ではない、と悟らざるを得なかった。

 そうこうするうちに、船はズームグ西部のちいさな湾に着岸した。エスターはこうして、全く思わぬ形で、故郷の地を踏むことになった。

 旅は単調なものだった。朽ちかけた道標や、通りかかった村の者に首都への道を聞く。村人は変った装束のふたり連れに恐れを無しながらも、ヴォーグがズームグでは珍しいテセの織物を数枚渡してみれば、その効果は莫大で、卑屈な笑顔を浮かべながらも、首都への道を教えてくれた。ただ、そのあと決まって誰もが言うのだ。

「都なんぞ、十数年も前に滅んでいるよ。あそこは呪われていからさ、誰も近づきやしないよ、あんたら、もの好きだな」

 エスターにとって、久々の故郷に感慨はあまりなかった。ただ、幼い頃親しんだ花が道ばたに咲いていたり、よく捕まえた虫たちがはねていたり、子どもの時分、世界が美しいと感じさせたあらゆるものを目にすると、しばし立ち止まって、目を細め見つめるのだった。やがてヴォーグが旅を急く声をかけると、何事もなかったように歩きはじめる。そんな繰り返しの日々であった。
 
 変化があったのは10日と数日を経た頃だ。エスターの足取りが重くなり始めたことに、ヴォーグは気が付いた。

「おい、どうした?」

 ヴォーグが慌てて駆け寄ってくる。それを感じる間もなく、エスターは、ばたり、と道に倒れた。エスターの顔は青ざめていたが、そっと触れてみれば頬は燃えるように熱い。これが起きると死も近いといわれる、病の発作だった。

 エスターは夢の中にいた。
 過去何度も思ったように「死んだかな」と思い、そしていつものように「父さん、ごめん」と謝った。陽炎のように父の姿が目に映る。夢の中の父の目は、いつも決して笑っていない。責めるような鋭いまなざしが、エスターを射貫く。エスターは嗚咽した。泣いて謝っても謝っても許してもらえないのは分かっていた、だが、夢の中でエスターは泣くことを止められないのだ。

 ――だが、この夢は、いつもとなにかが違う。

 エスターが思わず目を開けたのは、頬に流れ落ちた涙をそっと誰かの手がすくい取ったのを感じてのことだ。至近距離にヴォーグの顔があった。そして、ヴォーグのいかつい手のひらが、エスターの頬を流れる涙を拭っていた。

「気が付いたか」

 ヴォーグはエスターの瞳が焦点を取り戻したのを確かめて、静かにエスターから離れた。

「……感染うつるぞ。そんな、触れたりしたら……」

 エスターは短く苦しい息の下、そう応えた。

「気にするな。傷の膿に直接触れなければ、大丈夫なのは、経験から分かっている」

 空は黒く、星が瞬いている。夜の帳が降りた森の中にふたりはいた。たき火が炊かれている。いつか見上げた懐かしい星たちが、エスターを見下ろしている。そしてヴォーグも。

「……なぜ泣く?」

 エスターは赤面した。なんと夢の中だけではなく、この男の前で自分は泣いていたのか。そう思うと恥ずかしさに身が燃えた。熱のせいだけでなく体が熱くなる。ところが、エスターの意思に反して、涙は、いまだほとばしるのをやめないのだ。どうしたことだろう。こんなこと、あの日以来、ない。
 そんな統制のとれない自分に戸惑いながら、いつしか小さくエスターは呟きながら、泣きじゃくっていた。

「……父さん……父さん……ごめんなさい、許して……」

 ヴォーグは黙って、焚き火の向こうから見つめていた。そしてぽつりと言った。

「お前はその呪いを解く必要がある。病を治す前にな」

 エスターは泣くのを止めて聞き直した。

「……呪い?」
「ああ……お前をいま、動かしているのは、呪いだぞ。生きるための行動ではない」

 エスターは下を向いた。なぜこの男はこう、自分の痛いところを突いてくるのだろう。あの王宮の牢の中でもそうだった。

「……そう言われても、止められない……私は止まれない……」

 エスターはそう聞こえるか聞こえないかの小声でささやいた。遠くから夜行性の動物の遠吠えが聞こえる。すると意外なことをヴォーグは口にした。

「呪いを解いてやろう」
「何がお前にできる」
「何もできんさ、ただな、テセではよく歌われている、まじないの歌を思い出した」
 
 そう言うとヴォーグは低い声で歌を歌い出した。森の静寂を破らない程度の声で。

  ながれる みずが そのすえに
  注ぐ うみは 永久とわのうみ
  なにも かもが 集まって
  いつしか 地の果て たどりつく
  おおきな石も
  ちいさな木の葉も
  いきつく先は みな おなじ
  いきつく先で 見るものは
  お前が望む 夢のあと
  お前が望む 夢のあと……

 歌はときに途切れながら、長く続いた……かどうかはエスターには分からなかった。再び意識が遠のいて、静かに眠りに落ちるエスターをヴォーグは見た。
 ヴォーグは歌を止めると、エスターの泣きはらした寝顔を隠すように毛布を掛けた。

「……呪いから解かれたいのは、俺も同じだ……何を偉そうに……」

 ヴォーグの自嘲を、エスターは知るよしも無かった。 


 幸いなことにエスターの体調は急激に悪化しなかった。数日、森で休養したあと、なんとかもとの体調を取り戻した。ふたりの旅は再開した。
 だがその旅程で、あの夜のことがふたりの話題に上ることは無かった。エスターの涙のことも、ヴォーグの歌のことも。そのことに触れそうになると、ふたりとも、ややぎごちなくその会話を避けた。王都まではもうすぐだった。

 そしてついに、ヴォーグとエスターは王都を見渡す丘に到着した。遠くにかすむズームグの王都は、不気味な静けさを保っている。しかし丘を登り切ったふたりが息をのんだのはそのことではなく、ガザリアの旗を掲げた、丘の下を埋める軍勢だった。

「まったく別の道筋で来やがったのか……奴ら」

 ヴォーグが選んだ海路経由ではなく、ガザリア軍は海に出ること無く、大陸を直進してこの地にたどり着いたようであった。そのため両者は交差せず、ここまで道を進められたのであったが、ヴォーグはその幸運に浸ること無く、舌を打った。

「……先んじられたな……!」

 ガザリア勢も薬草の秘密に気づいて、ズームグの王都まではるばる軍を進めてきたのだ。眼下の光景が意味するのは、そういうことだったからだ。とはいえ、ここまで来て、唇を噛んで王都に入城する軍勢を見ているわけにもいかない。
 ヴォーグとエスターは、ガザリア軍に見つからぬよう、夜を待って丘の下へと少しずつ移動を試みることにした。
 しかし、夜目が利くガザリア軍の夜警が鋭く笛を吹き、夜明け近く、ふたりは気が付けば、ガザリア軍に囲まれていた。

「これはこれは……国境警備隊長、ヴォーグ将軍自らここまで足をお運びとは、驚きですな」

 夜明け前の冷たい風が吹き付ける中、夜警の知らせで駆けつけたガザリア軍の指揮官らしき男が馬の上から、動くこともできず、ただ、背中あわせで固まっているヴォーグとエスターを一瞥して笑った。ヴォーグはかろうじて剣を構えてはいたが、多勢に無勢、この状態では無力なことは、火を見るより明らかである。言葉の出ないヴォーグを前に、ガザリア軍の指揮官はさらに高く笑って言った。

「薬草だけで無く、ヴォーグ将軍をも国に土産として連れて帰れるとは、私は本当に幸運だ……テセのヴォーグといえば、有名だからな、なんせ国境警備の折……」

「言いたいことはそれだけか!」

 やや早口でヴォーグが叫んだ。とたんに兵士たちが色をなす。それを指揮官は静かに手で制すると、エスターに目を向け言った。

「女は切り捨てろ」
「やめろ!」
「お黙りいただこうかな、ヴォーグ将軍」

 すっ、とヴォーグの首に剣が差し出される。兵士たちはエスターに向き直り、剣を振り下げた。
 その時だった。エスターが短剣を胸から鋭く差し出すと、横に飛んだ。そして、飛ぶやいなや、指揮官の馬の腹を斬りつけた。馬が高くいななき、激しく身を揺さぶる。たまらず、指揮官は鞍から転げ落ちる。その間を逃さず、ヴォーグが短剣が刺さったままの暴れる馬に飛び乗り、エスターをも引き上げる。そして呆然としているガザリアの兵士の間を縫って、ヴォーグは王都に向かって馬を走らせ始めた。

「追え! 追うんだ!」

 背後から迫り来るガザリア軍の怒号に、エスターは肝が冷える想いであったが、ただヴォーグの腰に手を回し、落馬しないことだけに意識を集中した。刻はまさに日の出であった。
 東の丘から日が昇る。一騎の馬とそれを追う軍勢、そして彼らの前にひろがる王都に通じる平原を、朝陽の光が鮮やかに包み込んだ。

「……!」

 ヴォーグもエスターも、一瞬追われていることを忘れて、目を見張った。
 平原には一面、赤い花が咲いていた。

 一面の赤い花から立ち上る甘い匂いに、ヴォーグはむせかえる。が、かまわず平原に馬を踏み込ませ、更に鞭を振るう。それを追ってガザリア勢も、平原になだれ込む。途端に、赤い花びらが宙に舞った。続く悲鳴と怒号。エスターは思わず後ろを振り返った。

 目にしたものは、ガザリア勢の先頭の兵士が叫び声を挙げながら、ゆっくりと地中に引き込まれていく光景だった。そして、花畑に満ちる微かなあえぎ声にエスターとヴォーグは気が付いた。

「ヤツラヲ……ヒキコメ……ヒキズリコメ……」

 赤い花とともに、人ならざるものの声が平原に木霊している。その声に応じるかのように、ガザリアの軍勢は次々、土に飲まれていく。そして自分たちの周りからも木霊が聞こえた。

「コイツハ……ナカマダ……ナカマダ……」

 たしかに囁き声はそう木霊していた。エスターは身震いした。この声は、疫病で死んだ同胞の死霊によるものだ。ガザリア軍を土に引きずり込んだのは彼らの仕業だ。そして仲間とは……自分のことだ。同じ病に冒されている、自分のことだった。だからヴォーグとエスターの馬は止ること無く王宮の城壁まで進めたのだった。

 だが、もうすぐで城壁というところで、エスターの短剣が腹に刺さりながらも走り続けた馬が、いななきとともに傷に耐えかね、崩れた。とたんにエスターとヴォーグは花畑の中に投げ飛ばされた。すかさず囁き声が木霊する。

「コイツハ……チガウ……チガウ……」
「ヒキズリコメ……」
「ヴォーグ!」

 エスターの視線の先では、ヴォーグが無数の人ならざるものの木霊の囁き声によって、足を土に引きずり込まれようとしていた。しかし、かまわずヴォーグはエスターに向けて叫んだ。

「行けーっ!」

 その声に背中を押されるように、エスターは赤い花を踏み散らしながら、全身の力を振り絞り城壁に向かい走り始めた。
 朝の陽はまだ低く、だが眩しく、赤い花の広がる、死霊に支配された平原を静かに照らしていた。

いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。