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現代コメディ『エビデンス至上主義〜それってあなたの感想ですよね?〜』メモ


都会の喧騒から遠く離れた田園地帯で、いま、新たな形の「村八分」が静かに、しかし確実に進行している。ただし、その舞台は田畑でも、農協の会合室でも、集落センターでもない。スマートフォンの画面の中だ。

一見すると、これは奇妙な状況に映るかもしれない。かつて「デジタル・デバイド」という言葉で表現された都市と農村のテクノロジー格差は、もはや過去のものとなった。むしろ、農業従事者たちは、圃場管理アプリや気象予報システムに至るまで、最新のテクノロジーを駆使する「デジタル・ネイティブ」となっている。

しかし、テクノロジーの導入は、必ずしも価値観の「都市化」や「現代化」を意味しない。むしろ興味深いことに、SNS上の農業従事者たちは、従来の村落共同体が持っていた社会統制の機能を、デジタル空間において驚くほど精緻に再現してみせた。いや、場合によっては、物理的な村落以上に強力な排除と包摂のメカニズムを確立したとさえいえる。

たとえば、農薬の危険性を発言すると、「非科学的」というレッテルを貼られ、複数のアカウントから一斉に批判の矢面に立たされる。自然農法に関心を示せば、「素人の理想論」として嘲笑の的となる。まるで、江戸時代の村落における「村掟」が、いまやハッシュタグとリツイートという形で運用されているかのようだ。

これは当然逆ベクトルでも現れ、化学物質の嫌悪や自然調和的理想論を旗に、現行の農業システムにおいて維持されているはずの生命体自らそれを切り崩すために活動する勢力は存在している。

しかし、注目すべきは現在のデジタル空間において、このような声が著しく周縁化されている現状である。私たちは今や、現代コメディ『エビデンス至上主義〜それってあなたの感想ですよね?〜』という新たな喜劇の只中に生きている。

この喜劇の脚本は、SNSという劇場で日々更新される。主役は自らを「科学的」と称する論者たち、その脇を固めるのは「いいね」という形で喝采を送る観客たちだ。皮肉なことに、自然農法や有機栽培実践者たちは、この舞台においては「非科学的」という役割を振り当てられた道化として扱われるか、その豊かな精神性、数値にならない価値を捨てて、ファクトなる何の真実でもない言語(少なくとも彼らが志した豊かな未来とは違うもの)に翻訳しなければならなくなっている。彼らが語りたかったはずの豊かな実践は「あなたの感想」として一蹴される運命にある。

しかし、この喜劇が笑えないのは、それが私たちの認識の貧困化という悲劇と表裏一体だからである。測定可能なものだけが「真実」とされ、生きた経験や文脈依存的な知恵が「個人の感想」として周縁化される状況は、結果として私たちの世界理解をより浅薄なものにしているのではないだろうか。

これは現代社会における認識の歪みを如実に示す事例といえるだろう。測定可能なものだけが「真実」とされ、数値化できない価値が系統的に軽視される状況は、私たちの世界理解をより貧困なものにしているのではないだろうか。

筆者も「科学的に」をうたって発信している、むしろそちら側の先方みたいな者であるからして、自虐的にその行為を批評してみたいと思う。


この現象は、デジタル社会における人間関係の本質を考える上で、きわめて示唆に富んでいる。なぜなら、それは単なる「伝統的な価値観の残存」として片付けられるものではなく、むしろ最新のテクノロジーと古典的な社会統制が織りなす、きわめて現代的な権力の様態を体現しているからである。

デジタルメディアの変遷と共に、農業界における言説空間は特異な位相的変容を遂げてきた。Web1.0時代におけるウェブサイト・ブログやポッドキャストでは、農業従事者の発信は、農家というアイデンティティの特異性ゆえに、異質な視座をもたらす契機として機能していた。
農家であるということが、発信する一つ一つの言語に意味をもたらしていたのだ。
この時期、デジタル空間における農業的言説は、異なる社会階層や職能集団との邂逅を通じて、むしろ越境的な対話の可能性を開いていた。

しかしweb2.0時代、ソーシャルメディアの台頭において、この言説空間は質的な転換を迎える。プラットフォーム上での農業従事者の集積が進むにつれて、村落共同体的な権力構造をデジタル空間でも顕在化させた。この排他的な共同性は、その後YouTube、Instagram、Twitter、Tiktokへと主たる活動の場を移行させる中で、より洗練された形態での内部統制と外部排除のメカニズムを確立していく。

この転換は、農業従事者というアイデンティティの特異性が持っていた越境的可能性の終焉を意味した。異質な他者との邂逅の契機は失われ、代わりに同質的な価値観を共有する閉鎖的な言説空間が構築された。それは物理的な地理性から解放されながらも、むしろ従来の村落共同体が有していた社会統制の機能を、デジタル空間において純化された形で再現するものであった。

このような言説空間が示唆するのは、ポストモダン以降の世界における「大きな物語」への切実な郷愁ともとれる。かつて確固たる信頼を得ていた科学的言説は、今や無数の小さな物語の一つへと相対化されているはずであった。しかし、この不確実性を前にして、一部の実践者たちは逆説的にも、より強固な形でエビデンス至上主義という「新たな大きな物語」にすがろうとする。

客観的事実を振りかざす行為は、表面的には科学的合理性の擁護として現れるが、その本質においては、揺らぎゆく世界における自己確認の儀式としての性格を帯びている。

特に興味深いのは、「プロ農家を馬鹿にするな」という悲しき言説の両義性である。それは一方で、専門知識への正当な敬意を要求するものでありながら、他方で、異なる形態の知や経験の可能性を封じ込める排除の論理として機能する。(しかしその専門知識も、科学という土俵の上では、双方にとって高校教育課程にも満たないレベルのやりとりであることがほとんどである)
この排除の過程で、有機農業や自然農法の実践者たちは、単に「非科学的」というラベルを貼られるだけでなく、共同体の安定性を脅かす異分子として標的化される。

デジタル空間という巨大な「監視塔」は、私たちの生を取り巻く新たな権力装置として機能している。それは単なる監視や抑圧の装置ではない。むしろ、私たちの欲望や価値観を絶えず形作り、特定の「正しさ」へと誘導する巧妙な仕組みとして作用している。これは生権力の現代的な展開として理解できる。すなわち、直接的な暴力や禁止ではなく、むしろ「正しい生き方」や「望ましい実践」を示唆し、自発的な従属を促す権力の作用である。

特に農界隈のSNS空間で顕在化している現象は、この権力作用の典型例として注目に値する。そこでは「専門性」という特権的な記号を媒介として、新たな形の支配―服従関係が確立されつつある。

注目すべきは、この言説空間における「科学的事実」の位置づけである。それは対話の出発点としてではなく、むしろ対話を終結させる切り札として機能している。この構造において自然派とされる人々は、常に「啓蒙されるべき他者」として位置づけられる。彼らは議論の場に招き入れられながらも、同時に絶えず排除の対象として標的化される。この包摂と排除の両義的な作用こそが、現代の権力構造の特徴を端的に表している。

「いいね」やリツイートという、一見無害に見える日常的実践は、実のところ権力の微細な作用を媒介する装置として機能している。それは私たちの判断や感性を絶えず方向づけ、特定の価値観への同調を促す。

とりわけ深刻なのは、この構造において「科学主義」が新たな形而上学として機能している点である。科学的手法や効率性の追求は、もはや手段としてではなく、それ自体が目的化している。その結果、存在の真理への問いかけや、自然との共生を志向する実践は、単なる非効率や非科学として退けられる。

かつて自然科学は、絶えず自らの限界を自覚し、その認識論的基盤を問い直す営みとして存在していた。ハイデガーが指摘したように、近代科学の本質は、むしろ存在への問いを絶えず開き直す点にあった。しかし今や、とりわけ理系大学院の卒業者においてさえ、この本質的な問いかけの精神は著しく後退している。

多くの大学で一般教養課程が軽視され、または完全に廃止される中、自然科学の「絶対性」はむしろ強化されている。これは科学の宗教化と呼ぶべき現象である。測定可能な数値と、統計的有意性という十字架を振りかざすことで、あらゆる批判や疑問を封じ込めようとする態度は、もはや科学的精神の対極に位置するものだ。

この傾向は、SNS上で振りかざされる「科学的エビデンス」でも同様である。それらは往々にして文脈から切り離された数値の羅列に過ぎず、固有の条件への深い洞察を欠いている。これは、まさに現代の理系高等教育が陥っている認識論的貧困の反映である。

本来、科学とは仮説と検証の連続的なプロセスであり、その本質は「疑う」ことにあった。しかし今や、科学は疑いを許さない教義と化している。背後にある複雑な文脈や、測定できない価値の存在は完全に捨象されているようでならない。



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