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男根ロゴス中心主義と農村の女性搾取についてメモ

日本の農村空間は、いまなお露骨な形で男根ロゴス中心主義が貫徹する場として存在している。

もちろん当然の前提だが、それは都市部でも多く存在するが、農村部ではより顕著である。

この男根ロゴス中心主義は単なる田舎故の情報の遮断によって維持されているわけではない。むしろ逆説的なことに、インターネットやSNSの普及は、既存の価値観をより強固に固定化する方向で機能している場合すらある。なぜなら、オンライン空間における自己呈示は、往々にして現実の権力関係を隠蔽する装置として作用するからだ。

農村の若い世代がSNSで発信する「幸せな農村生活」であったり、「年収〇〇億円の篤農家」の風景の裏には、依然として女性への過重なケアワークの強制や、「イエ」という制度への従属が温存されている。彼らは確かに現代的な価値観に触れているものの、それらは表層的な様式としてのみ取り入れられ、根本的な権力構造への異議申し立てには至っていない。

より深刻なのは、このような状況が世代を超えて再生産されている点である。若い世代、特に20代・30代の間でさえ、地域によっては、驚くべきことに祖父母世代とさして変わらない男女観が維持されている集落も珍しくない。しかも当の本人たちには一切その意識がない。

これは構造的な暴力の世代間連鎖として周知されるべきだ。

※ちなみにここでいう男根ロゴス中心主義とは、単なる男性優位の価値観ではない。それは、理性/感情、生産/再生産といった二項対立を通じて、前者を特権化し、後者を従属的な位置に追いやる思考の体系である。詳細は後述する。

注目すべきは、このような搾取構造が、いまだに「イエ」という前近代的な社会システムによって正当化され続けている点だ。「家の存続」や「跡継ぎ」といった言説は、21世紀の現在もなお、農村における女性の身体を拘束する強力な装置として機能している。

ここでは、女性の身体は端的に「生産性」の観点からのみ評価される。
注意しなければならないのは、この搾取を行っている主体はあくまでイエであり、旦那や義両親ではないことも多い。そう、旦那は良い人であることも多い。
しかし行為者としては旦那の性欲がイエの意志として表現されており、「イエの存続」のために称揚されながら、その後に続く膨大なケアワークは、あたかも自然な営みであるかのように不可視化される。

都市部に比べ農村部における未婚率の男女差が拡大の一途を辿っていることはしばしば指摘されてきた。この現象は、かつてテレビの婚活バラエティ番組で農村男性の結婚難を応援するなど、公然の事実と認識されている。
しかし注目すべきは、この「問題」への対処法が、新たな形での女性の道具化を生み出している点である

その「解決策」として採用されてきたのは、主に二つの方法である。一つは、息子を一時的に進学や就職という名目で都市部に送り出し、そこで「お嫁さん候補」を見つけさせるという戦略である。ただしこの場合、息子は必ず実家に戻るよう教育されており、都市での経験は「花嫁探し」の手段として位置づけられている。

もう一つは、より露骨な形での他者の道具化として、国際結婚という選択肢である。これは単なる「国際結婚」という美名で語られるべきものではない。そこには往々にして、経済的格差を利用した権力関係が介在している。農村のイエ制度を維持するための「手段」として、異なる文化的背景を持つ女性たちの人生が利用されているのだ。

死にゆく女性たち

特に深刻なのは、このような構造的暴力が、都市部から農村に嫁いでくる女性たちにとって、きわめて見えにくい形で存在している点である。

地方出身者であれば、特定の「イエ」の持つ権力性や、そこに潜む危険性を察知するある種の感覚が培われている。「あ、この家はヤバい」という直感である。
彼女たちの多くは、状況が深刻化する前に離婚という選択肢を選び、自己の人生を取り戻すことができる。

こういった女性を選んでしまった愚鈍な息子の場合、うまく丸め込めずに逃げられてしまう。このケースは農村ではさして珍しくない。

これは決して「地方の生活に順応できない」という問題ではなく、むしろ構造的暴力への敏感な感受性の表れとして理解されるべきだ。

しかし、何も知らない都市部出身の女性たちは、この暴力の存在自体を想像することができない。「日本は先進国のはずだ」「自分は十分に教育を受け、主体的な判断ができるはずだ」——このような思い込みが、逆説的にも彼女たちを抑圧の罠へと導いていく。

さらに深刻なのは、多くの女性たちが、自らの置かれた状況を「個人の選択の結果」として受け入れてしまう点である。それは自己防衛的な心理でもあるが、同時に最も根源的な形での自己疎外でもある。

自己実現の可能性を奪われ、個人が輝きをくすませ生命としての一面的な死に追い込まれていく過程を見ると、筆者は苦しくて胸が痛くなり、無力感に圧し潰されそうになる。

それはこの構造的暴力を幼少期より目の当たりにしてきたからであると思う。女性への日常的な搾取、本人の、諦念に似た自己正当化――これらの光景は、幼い観察者の心に深い傷跡を残した。

この個人的な経験は、単なる一家族の悲劇として片付けられるべきものではない。そこには、農村社会に通底する構造的な暴力が、最も生々しい形で現れている。理論的な考察と個人的な経験が交差するとき、この問題の本質がより鮮明に浮かび上がってくる。

「農業女子」言説の欺瞞性

近年、このような構造的問題を不可視化する新たな装置として機能しているのが、「農業女子」という言説である。一見すると、これは女性の主体性や自立を称揚するかのように見える。しかし、その実態はむしろ既存の搾取構造を温存・強化するものでしかない。

最も本質的な問題としては、この言説は男根ロゴス中心主義的な価値基準をむしろ強化している点にある。「女性だってできる」という謳い文句は、暗黙のうちに男性的な能力や価値観を基準として措定している。つまり、見かけ上のエンパワーメントは、実は既存の権力構造への従属を意味しているのだ。

メディアもまた、この抑圧構造の共犯者として機能している。農村女性を扱うネットを含めたメディアの大半は、「頑張る農村女性」の成功物語として描かれる。

そこでは構造的問題が巧妙に隠蔽されており、このような表象は、農村女性たちの現実の苦悩や矛盾を不可視化するだけでなく、むしろ搾取を正当化する言説として機能している。「あの人はできているのだから、できないあなたが悪い」という自己責任論の強化である。

男根ロゴス中心主義からの解放を目指して

では、このような男根ロゴス中心主義からの解放は、いかにして可能なのだろうか。まず確認しておくべきは、この権力構造を支える二項対立の具体的な様相である。

男根ロゴス中心主義とは、理性/感情、生産/再生産、文化/自然、主体/客体、そしてイエの論理/個人の欲望といった、複数の二項対立を通じて機能している。注目すべきは、これらの対立項の前者が常に特権的な地位を与えられ(男性的)、後者が従属的な位置(女性的)に追いやられている点だ。さらに深刻なのは、この区分け自体が「自然なもの」として受け入れられている現状である。

たとえば、農作業という「生産」労働は可視化され評価される一方で、食事の準備や育児、介護といった「再生産」労働は、まるで女性の自然な営みであるかのように不可視化される。あるいは、イエの意思決定という場面では男性が主体として振る舞う一方で、日常的なケア領域は女性の責任として放置される。

このような二項対立からの解放には、まず、これらの区分け自体が歴史的・社会的に構築されたものであることを暴露する必要がある。ケアワークの可視化と再評価、感情労働の社会的価値の認識、「自然」とされてきた営みの歴史性の暴露――これらの作業を通じて、既存の価値基準そのものを揺るがすことが求められている。

しかし、それは単なる価値の転倒や否定に終わってはならない。より重要なのは、新たな価値基準の創造である。効率や生産性に依らない評価軸の構築、相互依存関係の積極的な評価、ケアの社会化と再分配――これらを通じて、既存の二項対立を超えた新たな社会関係を構想する必要がある。

具体的な実践としては、まず経済的自立の確保が不可欠だろう。独自の収入源の確保、財産権の明確な保障――これらなくして、真の解放は望めない。同時に、イエの空間的支配からの部分的離脱、プライバシーの確保、移動の自由の保障といった、空間的な自由も確保されなければならない。

さらに重要なのは、時間の取り戻しである。自己のための時間、学習や自己実現のための時間を確保することは、女性の主体性回復の鍵となる。

男根ロゴス中心主義からの解放は、単なる「男女平等」の実現を超えた課題である。それは私たちの思考様式そのものの変革を要求する。農村空間における女性の解放は、同時に、新たな社会関係と価値観の創造の過程でもある。

このような実践を通じて目指されるべきは、新たな農村像の構築である。それは、男根的な高効率の生産にのみ価値を見出すのではなく、小規模・多品目栽培、家庭菜園の再評価や、環境との調和を重視した農法、地域内循環型の経済システムといった、多様な農業実践の承認を含むものでなければならない。

同時に、ケアワークの社会的価値の再評価、相互扶助システムの構築、世代間継承の新しいモデルの創造も不可欠だ。

しかし足かせになるのはどこまで言ってもイエである。イエ制度に関する問題、そもそも筆者は婚姻制度による権力行使にも納得がいっていないのであるがその話はいずれまた。

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