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イスタンブール時間

5年ほど前、ある人がこんなことを話してくれた。

「自分の iPhone の時計はイスタンブール時間に設定している」と。

それを聞いた私は「なんでイスタンブールなんですか?」と素朴な疑問をぶつけてみた。そんなことしか聞けないぐらい唐突すぎる話だったが、何か返さなければいけない気がした。

こちらのそんな気持ちを知ってか知らずか、その人は「よくぞ聞いてくれた!」という顔をして、こう教えてくれた。

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たとえばさ。

「よし、明日から5時に起きよう。朝の時間を活用するんだ!」

と決めたとするでしょ。
けれど翌朝、起きたら7時だった。そしたらどう思う?

きっとさ、「また自分で決めたことを守れなかった。なんてダメな人間なんだ…」と自分を責めてしまうだろ。

だから時間の感覚をごまかすんだ。今はサマータイムだから、日本との時差は6時間。たとえ寝坊して9時に起きたとしても iPhone を見れば3時なんだ。すごいだろ!

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冷静に考えれば ーーー いや、別に冷静にならなくても ーーー 何がすごいのか分からなかった。今でもそう思う。

けれど、まるで都会のど真ん中で大きなカブトムシを見つけたように得意げに語る彼がとても輝いて見えた。

何事も経験。やったこともないのに「そんなの何の意味があるの?」と知った顔をするような大人にはなりたくない。

むしろ、意味がないと思うことにこそ新しい発見があるのではないか… 。

そう思った私は、その日から iPhone をイスタンブール時間に設定した。


はじめは、良いことなんてなかった。

当時、 iPhone のカレンダー機能に入力していたスケジュールは、すべてイスタンブール時間で表示されるようになった。そのため、もともと入力していた時間はぐちゃぐちゃになって、すべて編集しなければならなかった。

電車の乗換アプリも、イスタンブール時間で結果を出してくる。どんなに急いでいても、わざわざ6時間足して検索しなければならない。

目覚ましがわりに使っていたアラーム機能だって、起きたい時間から6時間引いて設定しなければならなかった。

正直、めんどくさいことばかりだった。

それでもなにか、きっとなにか見つかるはずだ。「継続は力なり」と言うじゃないか。ちょっとやそっと頑張ったぐらいで分かった気になるなんて…

だってあの人はあんなに目をキラキラさせて話していたじゃないか!

「6時間引いたり足したり…ちょっとした計算を毎回するのは、脳トレの代わりになるんだから!」と無理やりポジティブに受け止める努力をしていた。

ほんと、良いことなんて何もなかった。


9月のある朝。いつもと同じように iPhone のアラームで起きた。けれど、なんか違和感がある。いつもと同じはずなのに、何かが違う。でもその正体が分からない。

何気なくテレビをつけた。NHKの朝の連続テレビ小説がやっていた。

… あれ? これって8時からやってるやつだよね。私、7時に起きたつもりなんだけど…

朝ごはんを食べながら、

なぜだ… なぜだ…

と考えているうちに、はたと気づいた。
食べかけのごはんもそのままに、Google先生に「イスタンブール 時間」と聞いてみる。

違和感の正体が分かった。
イスタンブールのサマータイムが終わり、日本との時差は6時間から7時間に変わっていたのだった。

そのことに気づいた瞬間、なぜか私は嬉しくなった。

日本にはサマータイムがない。
なのに私は今サマータイムを体験している。

本来、日本では体験するはずのないサマータイムを今こうやってリアルに感じてる!

この時初めて、イスタンブール時間にして良かったと思えた。思わぬ形で新しい体験ができたことにテンションが上がった。

イスタンブールに行ったことがないのに、私は今イスタンブールの人たちと同じ時間を過ごしている… 。
すごい… 。

そう思えば思うほど興奮し、この話をしてくれた彼に「ありがとうございます!」とメッセージを送った。


2年ほどの間、私はイスタンブール時間で過ごした。年2回、サマータイムの切替を味わうためだけに。

機種変更をしたのち、一時は日本時間での生活に戻っていた。

しかし、今年に入ってまたあの興奮を味わいたくなって、時間の設定を変えた。今度はアテネだ。

本当はまたイスタンブールにしたかったのだけど、トルコは2年前にサマータイムを廃止した。なのでトルコと同じ時差でサマータイムを導入中のギリシャを選んだ。

「アテネ」という言葉の響きより「イスタンブール」のほうが好きなんだけど、こればっかりは仕方がない。

すべてはあの瞬間のためだ。時間の感覚が狂う瞬間を味わうためなんだ。

年2回だけ体験できる、瞬間の戸惑いと興奮を楽しみに、私は今日も6時間を足したり引いたりしている。


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剱 悠子
お読みいただきありがとうございます。 いただいたサポートで映画を観たり、本を読んだりして脳の栄養にし、ここでまた還元させていただきます。 今日もあなたに良いことが起こりますように。