読書について

こんばんは。今日もお疲れ様です。

「読書について」ショウペンハウエル 著 |斎藤忍随 訳 を読みましたので感想を書きます。寒くて乾燥しますね。
京都の金閣寺では2024年初めて雪化粧をしたそうです。

刊行日:1960/04/05 文庫 160ページ

アルトゥール・ショーペンハウアー: Arthur Schopenhauer,1788年2月22日 - 1860年9月21日)は、ドイツ哲学者[1]。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)[1]舞台発音ではショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも[2]

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

著者は「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ」「多読に走ると、自分の頭で考える力が失われてゆく」と述べ、新刊が出ると飛びつく民衆を批判し、また営利目的で書く行為を強く非難しています。

読んでいて耳が痛いです。いえこの場合、目が痛いの方が適切でしょうか。

いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。

「読書について」ショウペンハウエル 著 |斎藤忍随 訳

自分に芯がないまま、ただ多読を通して学んでも、愚者となってしまうだけで、思索することが大切だと、著者は書いています。

現代のインターネットやSNSは便利ですが、これまで以上に有象無象の情報にさらされることになります。とまあこんな駄文を書いている私なので、「誰が言っとんねん」というツッコミ待ちのような文書になってしまいました。

思索する者は、自分で直接その事柄を把握して物語る。

「読書について」ショウペンハウエル 著 |斎藤忍随 訳

我々はできるだけ重大な問題についての創始者、設定者、創案者のものを、あるいは少なくとも定評ある専門の大家のものを読むべきであり、またむしろ古書を求むべきで、古書の内容を手あたりしだい、抜き書きして作製した概説書はひかえるべきである。

「読書について」ショウペンハウエル 著 |斎藤忍随 訳

新書や誰かのおすすめの本に飛びついていた自分が恥ずかしい。古典や土台となるような本を読まずして、本当に重要なことは理解できない。おっしゃる通りです。と言ってる私はまた、著者に思考を乗っ取られ、思考停止しているだけに過ぎない。

久しぶりに読んで改めて学ぶこともあり、読書についての取り組み方を改めたいと思いました。また自分の中に軸がないと、いくら多読しても身につかないと再確認しました。

ちょうど、大河ドラマで紫式部をやるそうなので、そちらも見てみましょうかね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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