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「いい子ちゃん」の仮面
これまで苦しいことばかり綴ってきたけれど、私は基本的に、今自分は幸せだと感じている。
うつ病になって何もできなくなった私を、当然のように受け入れてくれる家族がいること。こんなに情けない私でも、離れず関わり続けてくれる友人がいること。
うつ病にならなかったとしても家族は家族、友人は友人であり続けてくれただろう。だが、私自身が、その尊さを心から理解し、能動的に愛することができるようになったのは、病気になった経験があったからだと思う。
弱い、不完全な自分でもいい。そのままの自分で、できることを探していこう。彼らのおかげで、そう素直に思うことができた。一方で、いかに自分がこれまで背伸びをして人と、社会と関わっていたか思い知らされた。
うつ病にならなければ出会うことのなかった様々な気づきや、知ることのなかった世界は、苦しさを伴うけれど、同時に私の背中を押してくれている。
うまく言語化できないが、私は、うつ病になる前の自分よりも、今の自分の方が好きだ。少なくとも、前の自分に戻りたいとは思わない。
子どもの頃から被ってきた「いい子ちゃん」の仮面は、これくらい強烈なパンチがなければ外れなかったと思う。今も「いい子ちゃん」が抜け切れていない部分はたくさんあるが、日々少しずつ手放している感覚がある。自分が何がしたくて何がしたくないのか、日常の小さなことでもわかっていないことが多くてびっくりする。「こうしたい」と「こうしなければ」の間の壁はあまりにも薄く、目を凝らして見なければ簡単に見誤ってしまう。
小学校4年生の頃、担任の先生に言われた言葉を、今でもはっきり覚えている。
担任は、50代半ばのベテラン教師だった。その先生が、三者面談の時に、何も言うことがなく完璧な私に冗談まじりにこう言った。
「つれづれちゃんは、今はよくても、いつか『いやだー!!』って叫び出すかもしれないよ」
と。
14年後、先生の予言通りになった。
あの時はよく意味がわからなかったけれど、今では先生の心配もよくわかる。物心ついた時から人の感情や思考を敏感に読み取ってしまう私は、無意識のうちに「いい娘」「いいお姉ちゃん」「いい生徒」でいようとしてしまっていたのだと思う。
日々、焦ることも落ち込むこともたくさんある。むしろその方が多い。けれど、この経験はひょっとしたら、私がもっと深く、豊かに、人生を歩んでいくために神さまが与えてくださったものかもしれない。
そう思えるようになるのには時間がかかったし、今も頑張ってそう信じようとしている部分はある。
けれど、純粋に今与えられている豊かさに目を向けたら、その恵みに感謝をせずにはいられないのだ。