20年近く、わたしのバイブル。 こどもの頃は 太郎さんの言葉も 敏子さんの言葉も なんだかよくわからないなあ でもかっこいいなあ と、ふたりの関係性は わたしの憧れだった。 その中でも 当時、いちばん 意味がわからなかったのが これ。 女は、自分の中に子宮を持っている。 自分で自分をはらむことは出来ないけれど、 感覚として、自分を包み込むことは難しくない。 だから、女は一人でも生きていける。 だが男の人は可哀そうだ。 彼らはみんな、母狐に追っ払われた孤児なのだ。 子宮
彼は わたしと同じものを 食べているはずなのに わたしの何倍も 美味しそうな顔をする。
むすめは2歳になりました。 だいぶ自己主張が激しくなりました。 自分の主張を叶えてくれる大人を その場から選び、 様々な手段で交渉してくるのを見て 「成長したなー」と思います。笑 要は、忖度を覚えたんです。笑 だから、わたしが 「ハグしよー!!」とねだると ぷいっと反対を向くこともあれば 素直にしてくれることもある。 一瞬考えてから そのハグが自分に有利に働くと判断したら ハグしてくれることもある。 賢いわーーーーー。笑 あと、前に褒めたことを覚えていて (たいし
夫に、悲しそうな顔をさせてしまった。 今日、わたしは怒っていた。 とある社会問題に対して。 なんでこんな結論になるんだと。 何だかわからないけど、怒っていた。 そして、夫に対しても怒ってしまった。 なんでこの問題に対して あなたは熱くならないのか、と。 どうしていつもそんなに他人事なんだと。 夫にしたら、とんだとばっちりだ。 彼は、こういう時黙る。 わかっちゃいるけど、 わたしは余計にイライラする。 またやってしまった。 これはわたしのくせ。 はた迷惑なくせ。 そし
ミッドナイトスワン という映画を観てきました。 ストーリーの要約は苦手なので 公式サイトをどーぞ。笑 https://midnightswan-movie.com/sp/ とても、 優しくて繊細で それでいて力強い映画だと わたしは感じました。 とっても印象的だったシーンがあります。 草彅くん演じる トランスジェンダーの主人公、凪沙が 一時的に預かっている 訳ありの親戚の子、一果の バレエの先生から 「お母さん!」と呼ばれたシーン。 そのあと、バレエの先生は あわて
前回までの記事はこちら。 わたしという「オンナ」 わたしという「オンナ」 2 前回の記事を書いた後、 この後どうしたものか… と、けっこう途方に暮れた。 自分の昔話でも書こうかと あれこれ思い出して ノートに書き出してみたら ものすごくつまらないものができそうで あわててやめた。 別に、わたしは 誰かや何かへの不満やグチを 書きつらねたいわけではないのだ。 普通に、 父と母から それぞれの価値観を 教えられた。 そして、それを 自分に採用すると決めたのは 自分なのだ
昔から、言葉を取り扱うのが好きだ。 ずっと「書く」仕事に憧れていた。 人生のやり残しを ひとつひとつ消化していこうと決めてから、 この「書く」ということに挑戦している。 ブログや note、 SNSに自分の言葉を書くのは 楽しい。 はじめのうちは気恥ずかしかったが 今は自由に表現できることが楽しい。 一方で、 今はライティングのお仕事にも挑戦している。 同じ「書く」でも、 こちらは「他人の言葉を扱う」お仕事。 ちょっと勝手が違う。 クライアントさんの言葉を代弁す
むすめ2歳。 なんとなく 言葉で意思疎通が取れるようになってきた。 なので、意識して 本人の意思を確認するようにしている。 今日も 「保育園行く?」と聞いてみた。 (仕事もあったのだが、むすめを見ながら できそうなので本人に選ばせてみた) 朝起きてすぐ確認した時は 「アンパンマン!」 と言われた。 …家でアンパンマンが観たいと言うことか? 一旦保留。 しばらくして再度確認すると、 やはり行くらしい。 かと思えば、家を出る直前に 「いやあぁぁあぁぁぁ!!」 と叫ば
ずーっと 「本当はこうして欲しかった」 「なんであんな風にしかしてくれなかったんだろう」 と、親に対して思って生きてきた。 恥ずかしながら、 自分の不足感を親のせいにして 生きてきていた。 もっと言うと、 いわゆる「普通」の家庭に育った (ように見える)人が 妬ましかった。 いいよね、まっすぐに育てて。 当たりのいいおうちに生まれてよかったね。 そんないじけたことを、 失礼なことを思っていた。 でも、今、前よりも少し大人になって。 わたしたちは、 環境に翻弄される受
「お産を語る会」 というやつに参加してきた。 むすめっこの出産は 破水からはじまり、 初産のわりには進みもはやく わりと安産だったのだと思う。 だから、わたしには 特に語りたいお産なんてなかったのだけど SNSで見かける 主催者さんの想いが なんとなく気になって 開催の告知を見てすぐ申し込んだ。 一番乗りの申込だったらしい。 会場に入って 参加の手続きをしていたら わたしに気付いた主催者さんが ハグしてくれた。 DMだけのやりとりだったのに 何かしらのシンパシーを わた
くりごはん。 秋になるとどうしても食べたくなる。 (もう冬になるけど) 鬼皮剥いて、渋皮剥いて。 いろいろめんどくさい。 爪はがれるかと思うもん。 「これなら楽に剥けます!」 的なのを見てやっても、なんか失敗する。 楽に剥けた試しがない。 爪の間に、栗の実はさまるし。 最悪、虫出てきたりするし。 茹ですぎると、 ごはんと合わせて炊いた時に ポロポロに崩れちゃうし。 でも、食べたい。 栗の皮剥いただけでは まだたどり着けない。 そこからまたごはん炊くし。 ほんのちょっ
女として生きるのって 息苦しそうだな。 幼い頃のわたしには 世界はそんなふうに見えていた。 次第に 少し視野が広がって 生意気にも 「女の権利ばかり 主張するのも好かないな」 とも思うようになった。 もう少し 大人になってからは 男の抱える息苦しさにも 目は向くようになった。 どちらにしろ わたしは 「生きるのは息苦しいこと」 そう自分の潜在意識に インプットしたのだろう。 世の中は 未熟で 暗澹としていて 多くの問題を抱えている。 そんなふうに感じていたように
ずっと 「女」である自分が 嫌いだった。 「女」であることに 引け目があった。 「女」に生まれたことを 後悔すらしていたこともある。 一方で そう思っていた 自分すら忘れるほどに ここ数年のわたしは 「女」ではなかった。 でも、 今思い出した。 「女」が嫌いだからと言って 「男」が好きだったかと言われれば そうでもない。 「男」も 嫌いだった。 「男」と「女」が 存在することで巻き起こる 様々な面倒が嫌いだった。 いちばん身近なヒトが 「女」だから虐げられてい
なんだか急に 走りたくなった。 働いていた頃は 運動不足解消のために 職場の仲間とゆるく走ったりしていた。 でも 妊娠をきっかけに ながらく 走りたいなんて 思わなくなっていたのだけど。 なんだか 自分でも おかしいのだが。 最近 内側からあふれてくる エネルギーを どうしていいのか わからないのだ。 ほら、 あの、 思春期の男子が 部活にエネルギーをぶつけるかんじ。 外に出て行きたくてたまらない このエネルギーを もんもんと 滞らせるわけにもいかなくて。 「ち
ゆうこ。 ごくごくありふれた、 平凡な名前。 わたしたちの世代としては 名前の最後に 「子」がつく女の子は 珍しくて。 ちょっと古ぼけたような 自分の名前が 昔は気に入らなかったのだけど。 今は すごく気に入っている。 「ゆうこ」は 「祐子」 と、書く。 「ゆうこ」とつけたのは、父で ほんとうは 「佑子」に したかったそうだ。 人の右に立つ者になるように。 そんな意味を込めていたそうだ。 でも 何を勘違いしたか。笑 「佑」の字は 人名漢字として 認めら
子供産むと人生変わるよ〜 そう言う人が苦手だった。 そんなふうに言う人にはなりたくなかった。 でも、案外、そうなっている自分がいる。 むすめっこの存在に、過去のわたしが癒されているのを感じる。 それは、子供を産んで、若かりし日の母の気持ちがわかるようになったから、ではない。 幼かった頃の、満たされなかった、さみしかった、不安がっていた、過去のわたしを、自分で抱き上げて抱きしめてあげることができるようになったから。 いじけている、幼い自分を、むすめっこと向き合う中で