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小学生とアートナイフ

小学5年生の夏、クラスが崩壊した。具体的に言えば、「学級」として機能しなくなった。教室は荒れてぐちゃぐちゃ。授業もままならず、日を追うごとに一人、また一人授業に参加しなくなった。学校には来ている、ただ、授業が始まると教室からいなくなるのだ。

思えばそれは、小学生なりの抗議だったんだと思う。

当時の担任はいわゆる「贔屓」がひどい人間で、よくヒステリーを起こすような教師だった。何も最初からわたしたちは荒れていた学年でもなかったし、4月の新学期が始まった頃はみんな楽しく過ごせていた、はず。けれど担任のそういった態度が目立つようになってから、とある決定的な事件が起こったのだ。

その日、二人の児童が喧嘩をした。たわいもないことだったと思う。それでも担任は一方を執拗に責め、自分のお気に入りだったもう片方を大袈裟に庇った。決定打だった。

責められた方は男子の中でいわゆるリーダーだった子だった。その日から男子の目立つグループの子たちが担任への反抗を始めた。日に日に激しさを増し、担任が泣く日もあった。

私の小学校では、各学級ごとに男女一人ずつ「学級委員」いわゆる級長のようなものがあった。それなりに責任感が強く、前に出られるタイプだった私は一年生の頃からなんだかんだ毎年その役についていた。その年も変わらず。だから、傍観者でいることを許せず、許されなかった。私なりに思うことだってあった。

男子たちが始めたことがいいことだとは思わなかった。けれど、あの担任がしてきたことだっていいことじゃない。そう思っていた私は、当時小学校にあった「相談ボックス」のようなものに相談を書いて、他の先生に相談をした。

結果は何も変わらなかった。話を聞かれただけで、ただ男子がふざけているだけ、そんな結論を出された。大人たちは子どもの声なんて聞いてくれないんだと思った記憶がある。私たちの行動は単なる「反抗期」じゃない。きちんとした理由があって抗議しているんだ。今なら、そう言える。けれど当時はそんな言葉を思いつかなかった。

状況は酷さを増して、不登校になる生徒もいた。クラスの半分ほどが教室から消えた。他にもいろんなことが起こって、みんな不安定だった。私も不安定だった。そんな時、教務主任から電話がかかってきた。未だに鮮明に覚えている。

寒くなり始めた11月ごろのことだった。当時の私の家のリビングは古く、板張りで、歩くたびにミシッと音がしたし、古い電話は薄汚れた白色で、窓際の台の上に置いてあった。いつものように宿題を終えて、その頃流行っていた番組を見始めた午後6時ごろだった。両親の帰宅はいつも8時近く。面倒を見てくれていた祖母は夕飯の支度をしていたため、私が電話をとった。

「お前、今クラスがどうなってるかわかるのか」

浅黒く日焼けした肌に白髪。低い声に眼鏡。剣道が強くて有名な教師だった。いつもなら言い返せるはずだった。でもここは学校じゃない。家だ。こんなところにまで、学校が襲ってくるのか。親にも祖母にもクラスの現状は話していなかった。すぐ横の台所にいる祖母や、目の前でテレビを見ている妹に気づかれたくない。声が出せなかった。

「学級委員なのに何をしていたのか。今不登校の生徒が自殺でもしたらお前らのせいだぞ」

何を言われているのか、わからなかった。今思い返してみても、理解ができない。11歳に背負わせるような言葉ではないと思う。けれど当時の私は、すべてを自分の中に収めてしまった。恐怖も、怒りも、納得のいかなさも、全て。その後も静かな罵倒は続き、私はひたすらそれを聞いた。電話が切れて、受話器を置いた。それから、ペンポーチに入れていたアートナイフを手にとった。

夏休みの宿題の工作。そのために100均で買ったアートナイフ。それを持ってトイレに向かった。トイレの壁紙は花柄で、香り付きペーパーのいい匂いがした。便器に腰掛けて、一思いに腕を切った。うまく切れなかった。

「早くしないと、バレる」

焦って何度も切りつけて、やっと少し血が出た。その時、なぜだかわからないがとてもほっとしたのだ。痛かったし、難しかったし、その割に大して血は出なかった。それでもなぜか安心したのだ。ピンク色のトイレットペーパーに赤い血が滲む。二回ほど拭えば細い線の傷跡が3本。やってやった、やってしまった、やってやった。そんな気持ちでトイレを出て、カーディガンを羽織った。傷と、この気持ちを隠すために。私だけの、私だけがつけることのできる、私の傷。

11歳の私はとにかくただ必死だった。

ここから消えたい気持ちと、恐怖と、怒りと、悲しみと、苦しみ。全部をぶつけたかっただけなのかもしれない。体の痛みを感じることで、押しつけられた恐怖と心の痛みを忘れたかったのかもしれない。

今となってはもうわからないけれど、これが初めてのリストカットだった。

あの時の恐怖も、怒りも忘れてない。
当時はうまく言葉にできなかったけど、あの一年で感じた周囲の大人に対する絶望は忘れないだろうし、ここに書いた出来事はきっかけでしかなくて、まだうまく言葉にできないいくつかの要因が積み重なって起こったことだったと思う。

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