未来への"目付け"
早いもので、今年も師走を迎えました。そぞろ歩きで秋を楽しむのが大好きな私としては、その時間が短かったので残念かつ未来への心配もありますが、目の前の高層ビルの谷間でも、木々の紅葉がホッとさせてくれます。
さて、この隔週連載コラムは「みらいのミカタ」というテーマですが、その”キモ”は何なの?とストレートに問われることがあります。みなさんは、この問いかけにどんな答えを用意していますか?
あまり、こういうショートカットな正解欲求に答えるのは気が進まない、へそ曲がりな私なので、本コラムで、まずは遠回りの迂回寄り道ルートを歩いてみます。
ミカタのわけ
ところで、「みる」と聞いて、みなさんはどんな漢字を頭に思い浮かべるでしょう?たぶん、おおかたは「見る」でしょう。けれど、私がテーマを「ミカタ」としていることには、それなりの想いがあります。
まずは、「みる」の漢字を挙げてみます。けっこうあります。辞書も調べながら私なりの解釈を記すと以下のとおりです。
見る:ものごとをとらえて目で感じる
観る:意識して視線を向けて、能動的に見る
視る:ものごとを観察しながら、じっくり注意深く見る
看る:生きるもののそばにいて見守る
診る:病状や不具合を調べる
どうでしょう、あなたの日常の「みる」は、どれが多いでしょう。また、「みらいのミカタ」には、どの漢字を当てるのが適当だと思いますか?
私の日常の暮らしを顧みると、どれか一つとは言い切れないのが実感です。その時々で重心のかけ方は様々ですが、すべてを重ねながら「みて」いるような気がします。
そして、未来をみるためには、ここに挙げた5つの「みる」を、いかに上手く繰り出せるかがキモだと、以前からなんとなく感じていました。だから、漢字を使わずに、カナに開いたわけです。
何をみるのか
私たち人類は、まだ時間を超えて旅するためのタイムマシンを持っていません。ですから、未来を直接みることはできません。では、何をみるのか?それは「兆し」を見つけることです。兆しから未来をみるのです。
寄り道ついでに「兆」という漢字についても調べました。これは、象形文字です。占いのための亀の甲に現れた割れ目の形を表した字だそうです。だから「前ぶれ」を意味するのですね。数の多いことも表しもしますが、その源までは寄り道しません。
兆しから未来をみる。そうなると、いかに、未来の前ぶれを感じられるか、そのために、どういうミカタをすればいいのかという問題になります。
私は、そのために必要な準備が大きく二つあると考えます。まず一つ目は、先の未来を想像していること、そして、二つ目は、前の歴史の流れをつかめていること、この二つの準備ができている人が、未来の兆しを見抜けると思います。言わば、バックキャストによる未来への接近の発見、ビッグヒストリーからの未来の潮目の発見、これらが発見すべき兆しです。
だから、刹那的な目の前の派手な出来事や流行りものを見て、未来の兆しだと騒ぎたてるのとも、すでに数値データになっている情報をロジックでいじくりまわすだけとも違うと思っています。見て、さらに観て、視る。そこに、未来の予兆がみつかるはずです。これが、未来研究30年超の私の実感です。
「みる」ための構え
前ぶれをみるには、みる側にそれなりの構えが必要です。それは、私が小学生から実業団まで続けていた剣道で言うと「目付け」です。剣道は、人と人が対面して、相手の隙を感じ取るや否や、先(せん)を取り、心技体を一致させて打突する武道です。
そこで大事になるのは、手足の動き以上に「目」になります。一眼、二足、三胆、四力と言って、剣道では手足の力以上に目が重要なのです。若い頃は、バッタのように飛びかかり合う当てっこであっても、稽古を積んでいくと、競技とは違う深い奥がみえてくるものなのです。
かく言う私は、まだまだその境地に達せぬまま竹刀を置いてしまいましたが、それは高段者になるほど明らかです。「目は心の鏡」とも言われ、相手の目を見ると、その人の心のほどがよくわかり、心を映し出す鏡のようなものだといわれます。
そしてさらに、剣道の言葉に「遠山の目付け」というものがあります。相手と向かい合い、しかし相手の一点だけを集中してみるのではなく、視線をあたかも遠くの山々を見渡すかのように保つのです。それによって、対象となる相手の一部だけをギョロリと凝視するのでなく、あえて半眼で遠くの山をみるようにするのです。
寄り道ついでに、剣道の目付けは、さらに二星の目付け、谷の目付け、二つの目付け、楓の目付けなどもあるほどで、やはり目付けが大事なことがわかります。宮本武蔵の五輪書の水の巻でも、
「目のくばりは大きく広く、”観”すなわち物事の本質を深く見極めることを第一とし、”見”すなわち表面に現れた動きをみることを第二に」
と書かれています。「離れたところの様子を具体的につかみ、また身近な動きの中から、その本質を知ることが兵法の上で最も大切である」とも記されています。
機会があれば、今和次郎さんの「考現学」のみかたについても語りたくなりましたが、今回はこらえておきます。
アタマでみる景色、こころで感じる情景
こうして、「みるための構え」が整うと、ボーッとみていた景色も、心に映るものが変わってくるはずです。この写真は、今いる場所の窓からの眺めです。目の前には高層ビルが競うように屹立していて圧倒されます。
写真のとおり、建物などの構築物の景色は、見事に直線と矩形で構成されているのがみえます。計算された動かない最適で強い美、コルビジェの近代建築の美しさに通じます。こういう情景を前にすると、わたしたち人類の文明の力を強く感じます。なぜ、こんなに高く、倒れもせずに、鉄骨は組み上げられるのでしょう。人間は太古から高いところを好んだのでしょうか。最上階に暮らす人たちの住み心地はいかなるものだろう。目の前の動じない直線と矩形が、そういう問いを湧き起こさせます。
しかし、ここで遠山の目付けです。背景の青空とながれゆく白い雲、ビルの谷間の神社の鎮守の森が、それとなく目に入ってきます。そして、それらには直線と矩形が一切見当たりません。そして、静止してもおらず、常にゆらいでいたり、流れていたり、動いています。
絶対矛盾的自己同一
見事な対照だと思いませんか?これが、人工と自然なのですね。近代を経て、私たちはこのように「人工物」と「自然」を分けてとらえるようになってしまいました。自然との闘争に打ち勝ってきた近代科学技術の成果でもあります。
しかし、どうでしょう。ゆっくり一日中この情景を眺めていると、人工物は自然に包み覆われていることに気付くのです。分離よりも融和を感じ始めます。理解しきれていないのですが、西田幾多郎さんの「絶対矛盾的自己同一」って、こういうことかなと感じたりしてしまいます。
決して、文明を否定しているのではありません。科学技術によって私たち人間は、厳しい自然や人間の能力の制約を越えて、快適で豊かな暮らしを獲得してきました。しかし、直立不動の直線と矩形だけでは、どんなに美しさを感じても、次第に息苦しくなります。飽きます。それを囲む青空とゆく雲は、のんびりしています。時々刻々変わるので飽きません。遠くに見える飛行機でさえ、のんびり飛んでいるように見えるのです。
目に見えるそのものは「景色」、目をとおして心に感じてセンシングしているのが「情景」と言うならば、未来は、景色よりも情景から感じ取るものかもしれません。目の前の動かない事実を見るだけでなく、それを包み込む大きなゆらぎを感じ取ることこそ、みらいのミカタだと考えるのです。
みえた!樹上生活に回帰するヒトの未来?
かなり、みなさんを寄り道に付き合わせてしまいました。そして、まだまだゴールとなる結論も先の方かもしれません。しかし、未来のミカタを語る上で、近代が築き上げてきたデカルト的なショートカットの正解だけを伝えることは控えたかったのです。ご容赦ください。敢えて西欧の人で言えば、ベイトソンの時代、西田幾多郎、鈴木大拙の時代の兆しです。
ところで、この情景から一つ湧き上がった未来の兆しがあります。アフリカのジャングルで樹上生活をしてきた人類のルーツたちは、地面に降りて二足歩行を始めて、世界に散らばっていき、近代科学技術による文明社会の構築に至りました。つまり、水平移動の自由度を拡げてきました。
一方、この情景から察するに、人類は再び樹上生活に戻ろうとしているのではないかと感じたのです。大都市の樹上生活へ。高層ビルという樹上で、情報という栄養分を摂取しながら、時々地面に降りて足りないものを調達したり、必要な別の樹上へと移動したりして生きていくヒトになる未来なのではないかと。
そうであっても、自然と対峙する、自然を酷使、克服する生き方とは、そろそろ訣別して、自然と人の暮らし、文明が渾然一体となるような、そんな「ハイパー万葉集」的な趣ある社会に向かうシナリオの前ぶれが、そこここに見つかり始めていると感じます。それが、SINIC理論の「自然(じねん)社会」、自ずと然りの豊かないのちの社会ではないかと、遠山の目付けで、みらいをミタくなります。
中間 真一