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"well-being社会"という社会?

消えないモヤモヤ

 先月末に開催された、”エッセンスフォーラム2024”という、賑やかかつ素晴らしいフォーラムに参加した。聞くだけでなく、「ウェルビーイング社会の解像度を上げるための視点」というテーマのパネル・セッションにも登壇させていただいた。
 今さら、と叱られそうだが、じつは、依頼を受けてから、そしていまだに「ウェルビーイング社会」という社会のイメージを描くことができないままでいる。
 他のパネリストのみなさんのおかげで、そのセッションは立ち見の方も出ていたほどだったが、私の中では、解像度どころか輪郭すらおぼつかないまま、モヤモヤと晴れずにいる。

“well-being”ってなんだっけ?

 概して、新手のコンセプトは、しっくりする日本語に変換されず、モヤモヤと低解像度のままにカタカナの姿で入ってくる。「ウェルビーイング」に対しても、まだまだモヤッとしたままの人が多いから、こういうセッションテーマが、多くの人の関心を集めるのだろう。
 この言葉、日本国内でブレイクし始めたのは3年前くらいかもしれない。しかし世界では、1948年に発効されたWHO(世界保健機関)の憲章の前文に「ウェルビーイング(well-being)」が使われて、世界的にこの概念が広く認知され、注目される大きな契機となった。
 この憲章では、健康を「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態(well-being」と定義して、健康が単なる「病気の不在」ではなく、より広範囲な人間の幸福や生活の質に関連するものであることを強調したのだ。
 ということは、日本語で言えば「健康」と「幸福」、つまり心身共に自分の生き様が満足できている、充足されている状態のようにも思えてくる。
 しかし、それも静的な現時点の状態に限られることなく、動的で常に環境と共に変化するものにも感じられる。それを「総合的幸福感」などと表現しても、まったく手元にたぐりよせた実感はない。

7つの充足ポイント

 人は、どういう時に「満足」や「充足」を感じるのだろう。諸説あるようだが、chatGPTの返答はさすがだった。

  1. 身体的な健康:病気がなく、体が健康である。

  2. 精神的な安定:ストレスや不安が少なく、心が落ち着いている。

  3. 人間関係の充実:家族や友人、同僚などとの良好な関係が築けている。

  4. 自己実現:自分の能力や才能を発揮し、目標や夢を追い求めることができていると感じる。

  5. 社会的なつながり:コミュニティや社会との関係性があり、貢献できていると感じる。

  6. 経済的安定:生活に必要な資源が十分にあり、将来への不安が少ない。

  7. 自由と自律:自分の意志で選択し行動できる自由があり、他者に依存せずに生活できる。

 このリストで興味深いのは、WHOの憲章前文で定義した「健康」に加えて、「自己実現」、「つながり」、「経済安定」、「自己決定」が挙げられているところだ。
 私は、この7要素がよい状態にあることをwell-beingととらえることに、かなり同意できた。しかし、これらが充足されている「社会」というものは成立するのだろうか。個人については成立するのだろうが。

社会のwell-beingとは?

 well-beingは、個人で成立するけれど、社会として成立可能なものなのか、そこが、私のモヤモヤを長引かせている大きな原因だ。
 つまり、well-beingが本質的に「個人の状態」に関わる概念であり、個人の経験に依存するものだという点である。それに対して、「社会」は多様な個人や集団が集まる構造体であり、価値観や生活状況、ニーズがそれぞれに多様で異なるものになる。そのため、すべての個人が同様のレベルのwell-beingを感じる社会を構築することなど、理論的に難しいことになるというわけだ。
 また、well-beingの持つ主観的な性質によるところも大きい。well-beingは非常に主観的な概念であり、個人の感覚や価値観に基づく。あなたの「充足感」や「幸福」が、私には同じように感じられないことも多いはずだ。そう考え始めると、「well-beingな社会」という表現は、個人の異なるwell-beingの形を一つの社会の枠組みで包括するという矛盾を含んだものになってしまう。

自律分散化によるwell-being社会の実現

 それならば、多用とは言え、かなり近しい価値観や生活スタイル、生活ニーズを共有できる人たちだけで構成される自律したコミュニティへと、社会の分散化を図ればよいのだろうか。
 歴史を遡ると、そのような試みはいくつかあった。宗教的価値観に基づくwell-beingを求めるコミュニティ形成は、ピューリタンやクエーカーなどが挙げられるだろう。経済的な充足を求めた産業革命時の都市形成、ゴールドラッシュの西部開拓時代もある。他に、政治信条や健康を理由とした分散コミュニティの形成の例は確認できる。日本における、武者小路実篤の「新しき村」などの理想郷づくりの実践活動などもそうだ。
 しかし、それらの多くは道半ばで頓挫したものが多い。少なくとも持続性という点では脆弱さが見られる分散型コミュニティの歴史だった。そして、その原因の多くは、「閉鎖的コミュニティ」という点にあった。原理主義的な絶対ヒエラルキーなどもあったかもしれない。単一的組織の弱さである。

自律分散×ネットワーク=well-being社会?

 もし、それさえ解決できればよいとなれば、地縁や血縁、社縁も希薄化して、生きる場の選択の自由を獲得した現代の私たちにおいては、これにデジタルテクノロジーを埋め込めば、理屈上では自律分散ネットワーク社会の構築の可能性が注目されることになる。”just in occasion”(ちょうど、その時に居心地のいい場を容易に自ら選び取れるような生き方、それは、一つの国の中だけで完結することでなく、国境を超えたものになるだろう。

筆者の今日の居心地いい場で撮影

 しかし、現実としては、まだ柄谷行人が『世界共和国へ 資本=ネーション=国家を超えて』で説いたような世界は遠い。道州制さえ実現しないように、国家と基礎自治体という仕切りは強固だ。ならば、今できる自律分散ネットワーク社会の実現に向けた道筋とは何か。

自律社会への道筋と兆し

 数年前から、第二の自治体をつくるという興味深い取り組みが始まっている。これは、一つの自治体のみで住民を支えきるのでなく、自治体のもとにLocal Coopと呼ばれる、新たなサブ自治体のような共同体を組み込んだ、共助や企業の取り組みも組み込んだ分散型コミュニティシステムである。

Local Coopウェブサイトより引用

 これらのコミュニティと、かつてのコミューン活動との違いは、柔らかさと開放性にあると感じる。さらに、ブロックチェーンなどの新技術の活用により、ファイナンスも成立可能となり、分散型の経済循環システムも生成できることが、進化の大きなポイントとなっている。
 私たちHRIでは、1993年に『定住を超えて マルチハビテーションへの招待』(清文社)という書籍を上梓して未来の住まい方を提案した。パーマカルチャーにも着目し、トマトの植物工場を核とした分散型コミュニティの建設にも着手した経緯がある。当時の取り組みは、生活者のニーズも、テクノロジーのシーズも不十分にて頓挫することになったが、30年を経てそれがようやく現実として社会実装され始めたわけだ。やはり、自律社会への道筋は間違っていなかった。

遊牧の民として生きる未来可能性

 さらに遡れば、オムロン創業者、SINIC理論の中心的開発者の立石一真は、1970年の雑誌インタビュー記事で「自然社会にもなると、オムロンカード1枚持って何不自由なく遊牧生活を楽しめる民となる」と、未来を予測していた。まさに、原始時代に戻るのとは異なる、豊かさを伴った遊牧の民への生き方が近づいているようだ。その時、一人ひとりの多様な価値観が充足される真のwell-being社会は完成されるのかもしれない。
 とりあえず、いまの自分の状態から言えば、well-beingは、健康な状態を失った時に気付かされる大切な状態だと痛感している。遊牧の民として明日をイキイキと生きるために、心身の弱体化予防が欠かせない。

中間 真一


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