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自己中心的で叶わぬ想い

最近は落ち込むことが多い。忙しさのせいであろうか。

「死ぬために不健康を選ばないで欲しい、病気になったときに本当に心配できなくなるから。」
彼にそう言われた。

彼の理論は尤もだ。
しかし、それを言われている間、私は申し訳なさで死にたいと願ってしまった。


日々に忙殺されていた私はついに、血尿が出た。
病院に行くことへのハードルが高い。死に近づけるのならば病気さえも有り難がってしまう。日々を忙しくすることで自分自身と向き合う時間から極力逃れている。
忙しいは便利だ。
これからも逃げる人生を歩むとなんとなく感じている。

将来起こりうる全ての嫌なことから、逃げたいと強く願ってしまう。


今は文字通りこれを書きながら頭を冷やしている。
頭というよりも体全体を、震えながらベランダでタバコを吸っている。
寒さでお腹が痛む。


これ以上頑張って生きていくことができない。
生きづらさを助長している"何か"を犠牲にして楽をするべきか、犠牲にできるものなんて側から見たらまだまだあるのかもしれない。しかし、それがどれなのか私にはわからない。
考えられない。考えたくない。教えて欲しい。


彼は楽しそうに生きているのに、時たま死にたがる私の言動や行動に短絡的な理解はあるけど共感がない。それはしょうがないし、相手が健全である良いことだ。
ただ何か心の壁を感じてしまう。
私がメンタルを病んでいるタイミングはめんどくさい、またか、って思われているんだろうな。そう感じる。


彼から人生や将来についての正論をぶつけられた時、大学生にそんな先々のこと分からない、といって逃げてしまいたいと思う。
周りの子達はもっと子供だと言いたい。
でも私は違う、我慢ができて当然だ、と自分に言い聞かせる。

わたしが嫌うことは発言に責任を持たないことだ。
だから「死にたいのならば死んでみなさい。」と言われた時点でもう私の負けは確定する。

死にたいなど、軽率に口に出すものではない、分かってる。消えたい、、死にたいというより消えたい。
消えたいと日頃から思う私はこれは言霊で、口に出していればいずれ死ぬことができるのではないかと開き直ってた。

しかし、死ぬことに対しての恐怖心はそれなりに持ち合わせているからどうしていいのかわからない。
消えさせて欲しい。どこかへ、何も無かったかのように。



一番近くの人、一番理解者であって欲しいと思う相手に言うべきものと言わぬべきものの分別がつかない。
理解して欲しいと思うばかりに配慮が欠けてしまう。心を開くと同時に、相手に誠実でいることに対して不安も感じる。


"死"について今後口に出さないことを約束することはできない。自信がない、責任がもてない、少なくとも一番私を理解していて欲しいと思う存在の人には...

今回は、落ち込んで初めて1人になりたいと感じた。冷酷であったことを今更気がつく。今更だ。

毎回、怒られた時はひどく辛い気持ちになる。他人にあまり叱られてこなかった人生にはきっと必要なのであろうが、21年間生きてしまったせいでよりひどく落ち込んでしまう。

悔しいと言うか、申し訳ない気持ち、不甲斐ない気持ちになってしまう。彼が大人であることを強く認識させられる。幾つになっても年齢差があることは変わらない。

私が悪いのに、ついつい泣いてしまう。精神がいっぱいいっぱいで。キャパシティがすごく狭いのに関わらず、寛大な精神の持ち主に憧れてしまう。無理をしようとしてしまう。

一つ踏み外すと
楽しい時間を奪ってしまった。申し訳ない。
そんな感情にさせてしまった。申し訳ない。
自責に駆られ抜け出す術がわからなくなる。ネガティブな思考を排除することができなくなる。頭が鈍くなり視野が狭くなる。


本当に命を断とうとしてしまうのでは、と自分をおそれる私がどこかにいる。
恐怖が倍増する。死んでからの想像をするが、死ぬ瞬間の想像はできない。

恐怖心と不安で八方塞がりだ。

眠ってこのまま目が覚めないで欲しい。
朝が来ないで欲しい。不整脈でも起こって欲しい。
安らかに終わって欲しい。消えたい。
私が愛する人に嫌われないうちに、人生が、終わって欲しい。

全てから逃げること
悪夢だけでなく、現実も漠に全て食べてもらうこと。

究極的に自己中心的な、叶わない私の一番贅沢な願いだ。

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