死
夫が6月11日に死んだ。突然死だった。ランニング中に帰らぬ人となった。その日のことは四十九日を過ぎた今でも鳥肌が立つ程、鮮明に覚えている。夫が仕事から帰ってきたらいなかったこと。嫌な感じがしたこと。妹と一緒に近所を探し回ったこと。警察に電話をしたこと。警察が家にきたこと。そのやりとり、立ち位置、警官の言葉、しぐさ。両親の不安げな表情。「しっかりしなきゃ、しっかりしなきゃ。」と自分に言い聞かせながら警察に向かったこと。無機質な遺体安置室。最初に目に飛び込んできたビニール袋にくるまれた夫のランニングシャツ、帽子、靴下、眼鏡、ガーミン。嘘でしょ。裸で横たわっている夫。何寝てるんだよ。突然遺体になった夫。信じないよ。眠ったまま目を開けない夫。起きなさいよ。冷たくなった夫。ここ寒すぎだよ。号泣。絶望。号泣。絶望。号泣。これが遺体確認なのか。ドラマで観たあのシーンなのか。私が主役なのか。私にとってはあの日ではなく、まだその日だ。その日の温度、湿度、音、匂いまですべて私の体の隅々に刷り込まれている。
本当に大切な人を亡くすと、大概の人は私のようにその日のことを隅々まで覚えているものだ。私の90になる叔母も私と同じように50代で夫を亡くしたが、もう40年も経つのに、その日のことを鮮明に覚えていた。認知が少し入っているのに決してその日を忘れてはいない。数少ない夫を亡くした友人と話をした時も彼女はその日のことを饒舌に語った。まるで今それを見ているかのように。語り継がれた昔話のように。
そして今、死別の悲しみ苦しみを救ってくれているのは間違いなくtwitterだ。娘に勧められて始めたのだが、私のように死別で苦しんでいる人が実に多いことに気づかせられる。彼らはお互いをいいねし、フォロー、フォロワーを増やしていく。イイねは応援の意。一人でもイイねを押してくれる人がいるだけで心が救われる。気持ちが落ちるとき、元に復するとき、ドーンと地の底まで落ちる時。死別者の心はジェットコースター並みにコロコロ変わる。そのたびごとにつぶやく、つぶやく、つぶやく。書くことで救われ、イイねをもらって、コメントをもらって自分が一人ではないと納得する。1年かかるのだろうか、5年かかるのだろうか、一生かかるのだろうか。少しでもその思いを薄めるために今日も彼らは呟くのだ。
死別って何だろう。結婚したりパートナーが出来ても、いつか必ずどちらかが先に逝く。特段珍しいことでもなく、はるか大昔からそして世界中の人たちの半分が味わう感情。こんなに大変なことを皆どうやって乗り越えてきたのか?いや乗り越える必要のないものなのか?そもそも死ぬってなんだ?生きると死ぬの境界線はなんだ?私は今一番大切な人を失って、取り返しのつかないかけがえのない人を失って、さてここからどうやって生きるのか、何が出来るのかを天に試されている。