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精神疾患を持つ者が同族でいがみ合う現象について

PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した元アナウンサーの女性が出版したフォトエッセイが物議を醸している。

近所の書店で売り切れていたので私は中身は読めていないけれど、内容としては自身のグラビア写真とともにPTSDの闘病記が綴られてたものらしい。

本のレビュー欄では、「性被害でPTSDを発症したのなら、露出度の高い服装で写真集を出せるわけない」「この人のせいでPTSD持ちが社会で生きづらくなった」など否定的な声が多いように見受けられた。
これらの声は、「表舞台に出られる著者は軽症だ」「私はこんなに苦しいのに」「PTSDの病名を安易に使うな」とも言い換えられるだろう。

この光景に私は既視感があった。私自身発達障害の当事者で、界隈の目立つ同族に苦々しい感情を持った経験があるから。

発達障害と一括りに言っても程度は様々。発達のアンバランスがあるにしても、生活や仕事に大きな支障はないから受診していない人と、困りに困って医療機関に駆け込み診断に至った人とでは天と地ほどの差がある。突出した才能を活かして活躍する人もいれば、鬱病など二次障害が深刻で作業所への通所もままならない人もいる。私はどちらかと言えば後者寄りである。

発達のアンバランスがありながらも、社会でバリバリ活躍しているほんの一握りの層がメディアに取り上げられては「障害に負けずに、自らの特性から才能を見出して活躍する輝くストーリー」として世間に消費されていくのを見ると、私は「やめてくれ」とうんざりした気持ちになる。
発達障害が大したことない障害だと思われてしまうじゃない。二次障害で深刻な精神疾患を持っていたり、仕事が続かずに経済的に困窮していたりする当事者の姿が不可視化されてしまうじゃない。そんなに簡単に障害名を使わないでよ。美しいストーリーとして消費させないでよ。
才能を何も持たず働くこともままならない自分の存在が、置いてけぼりを食らった感覚になってしまう。障害と一括りに行っても軽重も特性の顕れ方も人それぞれって頭では分かっているのに。

精神疾患も、症状や回復の過程は人それぞれだ。発症のきっかけは何だったのか、早期に医療や福祉に繋がれたのか、家族のサポートを得られたのか。自分ではどうしようもない要素にも左右される。
そして精神疾患は右肩上がりに回復する病気ではない。いつになったら日常を取り戻せるのか、不安や焦りが募る日々が長く続く中で、「症状の軽重や回復過程は人それぞれ」と頭では分かっていても、感情では上手く受け止められない時はどうしてもあるだろう。

精神疾患を持つ同族でいがみ合う現象は客観的に見ていて気持ちいいものではないけれど、それを簡単に否定するのも違う気がして私は落としどころを見つけられずにいる。