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「発達障害者は才能を発揮して生きるべき」論は差別である


現在、発達障害を持つ私たちは社会から両極端な扱いを受けています。

「発達障害者は天才」「突出した才能の持ち主!」とメディアや書籍で持てはやされる一方で
「発達障害者は迷惑な存在」「職場のお荷物」といった声は現実社会にもインターネットにも溢れています。

当事者は、ときに期待の眼差しを、ときに排除の眼差しを受ける宙ぶらりんな立ち位置に置かれ困惑しています。

「発達障害者は天才」「発達障害者は迷惑」。
賞賛と排除、真逆のことを言っているように見えますが、実はこの二つの言説は繋がっています。
「発達障害は天才」説は、差別と表裏一体です。
前者は持ち上げているから問題ない、なんなら褒めているんだし良いんじゃないの?と思われるかもしれませんが、むしろ前者の方が一見善意のように見えるからこそ厄介で、当事者としては感情の処理に困る。



発達障害と才能の関連に、医学的・統計的な根拠はありません。
発達障害とは先天的な脳機能の不備のようなものであり、才能とは関係ありません。
発達障害だったと言われている偉人にエジソンがいますが、彼が実際に発達障害だったとしても、その天分は発達障害由来のものではなく、エジソン本人のパーソナリティーに由来するものと考えられます。


「発達障害は天才」説は、アンコンシャス・バイアスの一つです。

※アンコンシャス・バイアスとは
自分自身は気づいていない「ものの捉え方の歪みや偏り」を言います。
アンコンシャス・バイアスは、その人が過去に見聞きしたことや、価値観、信念をベースに発生し、何気ない発言や行動に現れます。
人の属性をもとに先入観や固定概念で、その人を決めつけてしまうのがその例です。自分自身では気づきにくく、歪みや偏りがあるとは認識していないため「無意識の偏見」と呼ばれます。


なぜ、多くの人が「発達障害は天才」という「無意識の偏見」を持つに至ったのでしょうか。


考えられる要因としては、メディアに取り上げられる発達障害者が、才能を発揮して活躍している人々に偏っていることが挙げられます。
感動ポルノを作りたいとき、ダイバーシティを語りたいとき、ストーリーになるのは平凡な発達障害者よりも、何かしらの才能を持っている発達障害者です。
メディアに登場する発達障害者が才能を発揮している人に偏ることで、世の皆様は「発達障害の人は突出した才能を持っているのね」と誤解するようになります。
市井に暮らす発達障害者の大半は才能を発揮するどころか、社会から排除のターゲットとされて精神的にも経済的にも苦しい状況に置かれているというのに。



「発達障害者は才能を発揮して生きるべき」という言説を当事者に向けることは差別であると私は断言できます。


理由としては
・当説は「生産性のない人はいてはいけない」優生思想に行き着くこと
・当説はその人がありのままで生きることを尊重していないこと
が挙げられます。


「生産性のない人はいてはいけない」優生思想に行き着く

今の社会は、「生産性」や「効率性」を問われ、スピード感とともに競争社会を生き抜いていくことが求められています。
「生産性がない人間」のレッテルが貼られた人間に対して世間の目は冷ややかです。
生活保護バッシングもそうですし、「LGBTは生産性がないから支援しなくていい」と発言した政治家に一定の賛同が集まったことからも、このことが窺えます。
みんな「生産性のない人間」というレッテルを貼られないように横を見て比べ、落ちこぼれないように必死に頑張っている。
「生産性のない人間」を忌避する物差しを持っている大多数にとって、自分の身近な人に「生産性のない人間」に落ちてほしくないと願うのは自然なことでしょう。

我が子の発達障害をなかなか受け入れられなかった親御さんが、「発達障害は天才」説を知ることで「突出した才能があるのなら…」と発達障害を受け入れた、という話を耳にしたことがあります。
障害特性という非生産性要素を打ち消す手段として、才能を捉える人がいることに私は違和感を覚えます。

発達障害に限らず、何かしらの弱者や被差別属性を持つ人が多様性の輪に入れてもらうには突出した何かを持っていることが求められます。

知的障害者はピュアな心を持っている。
ゲイや女装家はトーク上手で楽しませてくれる。
LGBTは消費市場として大きな可能性を持っている。
企業上層部で活躍する女性は、女性ならではの感性を活かしている。

こうした言説を耳にしたことのある人は多いでしょう。
障害特性や被差別属性といったマイナス部分を打ち消せるほどの、突出した何かがないと社会に認めてもらえない現実に私は疑問を抱いています。

今の日本において、真のダイバーシティが確立しているとは私は到底思えません。

どうか、なんの才能もない平凡な発達障害者の存在も認めていただきたい。
私たちはすでにあなたがたと一緒に生きています。
同じ空の下で。同じ街で。
なんの取り柄もない人がいたっていいじゃないですか。
生きさせてくれよ。生きていてくれよ。



その人がありのままで生きることを尊重していない

私たちは発達障害である前に人間です。
人間の部分において、それぞれが価値観を持っていますし、それぞれに合った生き方があります。

例えば、発達障害30年目の私の場合。
私はひっそり静かに暮らす生活が向いています。
注目されることや華やかな場所に出ることは苦手です。
仮に私に突出した才能があったとしても、特別な生き方は選ばず、平凡な勤め人として生きることを望むでしょう。


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