BLMに思う ~自分の意見を言うという事 ~
アメリカはミネソタ州のMinneapolisで黒人のGeorge Floydさんが白人警官に首を押さえつけられ死亡した事件を発端に、全米各地でプロテスターによるマーチが行われている。そして、同時に暴動や略奪も発生している。先週にはウチの目の前にあるドラッグストアやコンピューターストアが被害にあった。
この一番新しく、且つ古い歴史を持つ黒人差別というトピックについて世界中の人々はSNSに思いを綴ったり、動画を使って発信をしている。差別というのはとてもデリケートな話題で、下手な事を書くと炎上してしまうと思いつつ、それでも僕たちは何かを伝えたくなる。ツイッターでも感情的だったり、冷笑だったり、色々なものを目にした。そして↓のツイートをした。
学ぶ事によって無意識な先入観を自覚して、物事を意識的に捉え「調べ、理解し、評価して」発言(行動)していきたいという思いを込めたんですが予想以上の反響があった。そうは言っても、皆が学者では無いので「出来る限り誠実に調べる」事しか出来ないし、理解や評価だって現時点の自分の精一杯でしか出来ないのはわかっている。
そんなことを思いながら話題になっていた16歳、31歳、46歳の3人の黒人男性の対話の動画から考えた事をツイートした。
日本に生まれ育った自分が黒人差別の問題について考え、話をする時に「自分は何をわかっていると言えるのだろうか?」という居心地の悪さを感じる。しかし、人間は誰だって無意識か意識的かは別として大なり小なり差別をするし、差別をされている。だから、この問題を抽象化して捉えられれば、日本人であっても問題の本質は見えてくるし、意見をいう事は出来る。
このことを考える時、僕の中の傲慢さや、卑屈さと正面から向き合わざるを得なくなる。それは結構しんどい事なのだけど、だからなのかいつも以上に多弁になっている自分に気付いて、また少し凹む。そんな時に↓のツイートを見た。
フォローしている訳でも無いし、引用RTはあまりしたくないなぁ、という気持ちからRTだけして↓のツイートをした
でも、これについても色々と後から考えた。
僕は無意識にツイートの対象者を差別者でも非差別者でも無い「傍観者である日本人」に設定していた。そして、その人たちには学ぶ意思があり、心ある誰からからの指摘については心を開いて聞き、人類の未来のために何かしらの活動をしてくれる、と。実にナイーブだったな、と思う。
マジョリティ側の無関心と沈黙の結果、社会は変わらず構造的差別が根絶しないのは事実だと思う。だから、マジョリティ(この文脈では日本人)に対して発言の内容や質は問わずに発信を喚起し、関心を高め、そこから「正しい方向へ」導いていくと言う様なイメージのみで書いていた事に気付いたからだ。もう一度言うけど、実にナイーブであった。
悪意をもって差別的な言動をする人達はともかく、自身の姿勢に疑問を持たず、当然学ぶ気など無い「無自覚な差別者」達の存在を失念していたのだった。そういう人達の言葉が当事者たちを傷つけ続けてきたという、当たり前の事実に気が向かなかった。前述の僕のツイートは非常に限定された前提条件のもとでしか通用しない。そして、僕は無自覚で無邪気な差別的な言動を肯定しない。
ここが矛盾点であり、とても難しいのだが、現時点で無自覚で無邪気にそういう発言をしている人が何かしらのフィードバックを得る事で、気付き、学び、自身の言動を改める可能性はゼロでは無い。しかし、差別される側が傷つくのがわかっているのに、そういう発言を助長出来るのか?
絶対にダメだ。つまり、差別について語っていたくせに、僕は当事者側の気持ちや、思いを全く想像出来ていなかった、という事だ。
そして「条件反射で感情をまき散らすな」と言っていたのに@shinya_cal氏の「中身がなくて薄っぺらいな」というツイートに見事に条件反射してしまっていた。。。。
自分の意見を言うという事。それは、責任を引き受けるという事だ。間違えた時、訂正しなければならない時、色々な事が起こるが、それに対して誠実に向き合っていくと改めて思った次第。
自分以外の人の発言のスタンスについて論じられるほど考えがまとまっていない事にようやく気付いた。以後、自重します。