HBO Tremeに思う『打ち切られたドラマの登場人物だって生き続ける』という話
HBOのTremeというドラマをAmazon Primeで試聴している。シリーズ4に入ったばかりなのだけど、数年前のドラマなので僕はこのシリーズ4の5回目をもってドラマが打ち切りになることを事を知ってしまっている。残るは4回分。複数ある伏線は回収されるのか?いや、出来ないんだろうなぁ、と思う。
映画じゃないんだし、連続ドラマなんだから満足できるエンディングが来ないのは仕方が無いな、と思う。正確に言うと今はそう思える、という事。子供の頃は何でもちゃんとした結末が無かったら嫌だったし、ストレスだった気がする。
なんだかんだと40年以上生きてみたら、日々起こる様々な事の殆どが中途半端で終わってる、という事に気付いてしまった。誰かと出会って交流始まっても、ある日突然疎遠になってしまう。意気揚々と始めた勉強や趣味もいつの間にか存在していなかったかのように意識から葬り去られる。仕事ですら「いいね!それやってみよう!」と言いながらも1ミリも動かない事なんてザラだ。
僕らは不完全な事柄と関係性の中で生きている。だからこそ映画やドラマや小説といった作り物の世界だけでも、キチンと閉じて欲しいと思うのではないか?と考えたりする。そして、現実に慣れ過ぎた中年になると作り物の世界ですら中途半端でも許容出来るようになってしまう。これは皮肉だな、と思う。
誰だって中途半端を良しとしている訳では無い。出来ればちゃんと継続したいし、完結させたいのだ。でも、過去に何かを完結させたことが無ければペース配分も分からないし、永遠に続くように思える停滞期にうんざりしてしまう。そして中途半端な何を積み上げて人生を終える。まぁ、そんなものだと割り切るのも人生だし、それに抗うのも人生なんだと思う。
若い時の情熱というか青臭さって言うのは、中途半端の許容を強要する大人に対して、純粋に何かを完結させるために人生をささげたいと思う若者の反発なんだ、とわかった。だったら、全力でやって欲しい。諦めて途中で放り出してはそれに適当な理由を並べ立てる事ばかり上手くなっていく大人たちをぶっ飛ばして欲しい。溢れるエネルギーと情熱を何か一つの事に注ぎ込んで、上手くいかない時には苦しんでもがいて、それでもあきらめずに前に一歩踏み出すという尊い時間を大切にして欲しい。
実は僕も大人は嫌いだった。歳だけは重ねてしまって、大人として扱われるようになってしまったけど、今でも大人は嫌いだ。若かろうが年と取っていようが諦めてしまっている人達が好きじゃない。出来ないから諦めるんだろうけど、出来る出来ないでは無くて、やるか、やらないかだ。Canの問題では無くでDoの話だ。状態の問題では無くて主体性の問題だ。
でも、そうはいっても「何をやるか」は決める必要はある。時間は有限だし、何にでも時間を割けるわけじゃない。人生はシンプルに言えば「誰と付き合い」「何をするか」だ。そして、大体こういう事を書いている時は、僕自身が何かに迷っている時だという事も知っている。非常に格好悪いけど、おそらくそうだ。このフェーズではフワフワし過ぎていて誰にも相談できないから、書いて自分と話しているんだと思う。
Tremeの話から色々と書いてしまった。打ち切りになったドラマの登場人物たちも僕の頭の中でそれからの人生を生きていく。これまで実際に出会い、話し、時間を共にして、今は疎遠になってしまった人達の事を時々考えるように。自分以外の他人の人生なんて架空の登場人物もリアルの知り合いもそんなに変わらないのだ、と言ってしまったら寂しすぎるだろうか?現実と架空の世界の境界が無くなってしまっている人と何人も出会って来たけど、案外おかしなことでも無いんじゃない?と今なら思う。
だから、まぁ、自分の人生を実感を持って生きるために、何かを完結させるという意思を持って行動し続けよう、とは思う。少なくとも週に一回はそう思わないと、自分にとって自身の存在が架空のものになりそうな気がする。