「自覚的弱者」で「無自覚な強者」な男~性差別について書いた事と考えた事~

まずは言い訳。。

下記のTweetの反響が結構あるのだけど、少し思う事があるので書いてみたい。 

「初めて遭遇した」というところと「暗い気分」という個所が誤解を招いてしまったようだ。140文字という制約と、多分寝る前に思い付いて投稿した事もあって文章を練っていなかったのが原因とは言え、野暮だけど言い訳を書いておきたい。

何が初めてか?

女性にマウントを取ったり、横柄な態度を取ったり、敬意を払わない男性はこれまでの人生で腐るほど見てきている。私はアメリカで企業のHRを担当してきた経験もありSexual Harassmentについての知識については業務レベルで持っている。また、年に一回の弁護士によるSexual Harassment講習も必ず受講して知識と情報のUpdateに努めている。そして、セクハラ事案については実務で対応をしてきた。

またネットにおいての女性への差別的コメント等も特にTwitterでは頻繁に目にしている。

では、自分に取って何が初めてだったか?というと、

「ツイ主の女性に対してタメ口で強気に上からリプしている男性に対して私が横からコメントしたところ、相手の男性の態度が非常に低姿勢になり(彼が私に)謝罪をし、最後には(彼から私が)褒められる」

という巷で良く聞く「あ、男性でしたか。失礼しました^^;」の「男性」に自分がなってしまったのが初めての経験だったのだ。

元々、私が書いた帰国子女についてのTweetが発端で始まった議論ということもあり、その論点がずれた攻撃的なコメントに対して何かを言わずにはいられなかった。認めたくはないが正義漢ぶろうとしたのかも知れない。正直コメントした時は攻撃的な反応が返ってくるのを覚悟していた。聞く耳を持つようにも見えなかったしマトモなコミュニケーションが取れそうも無かったからだ。

しかし、相手の反応は意外なほど素直で、すぐに非を認めて謝罪をし会話は終わった。

では何故暗い気分になったのか?

謝罪したのだから良いじゃないか?と思うかもしれない。いや、そうじゃない。彼は私に謝罪をしたのだ。

彼は論点のずれたタメ口のコメントでツイ主の女性を不快にさせたのに、彼女では無く私に謝罪をした。

私は彼に「何故、彼女に謝罪しないのか?」とは言わなかった。会話の終盤に彼は私のある発言に対して「凄いですね!」と肯定的な言葉を投げかけてきた。それで懐柔された訳では無いけれど、会話を長引かせるよりも早々に終わらせた方が良いだろう、と思い会話を打ち切った。

強く謝罪を求める事は出来たかもしれない。彼を屈服させる事で自分が達成感を得てしまいそうで嫌だった。そして、それによって私ではなくツイ主が逆恨みされるのはもっと嫌だと咄嗟に思った。でも、とにかく一つ確実なのは今回ツイ主は謝罪されず、不快な気持ちは消える事は無いという事だ。今でもどんな行動が正解だったかはわからない。いまだにモヤモヤとした感情は残っているし、何より彼女はどう思っているのだろう?と考える。

この出来事は私を十分暗い気分にさせるものだった。

無自覚な強者

社会においての強弱は相対的なものだ。当たり前だが男性社会においては男性間で強弱が生まれ、男は男を見上げ、そして男は男を見下げる。子供の頃からそんな事に一喜一憂しては心を支配されがちだ。そして、多くの男は誰かと自分を比べ、羨み、嫉妬し自分を弱者と自覚する。

しかし、自覚的弱者である男性も男女間においては相対的には強者になることが圧倒的に多い。しかし、その事に自覚的な男性は実はとても少ない。私は以前からこの状態を「無自覚な強者」と呼んでいる。

自覚は弱者だが、客観的には強者である人間は、自分より弱い存在を労わる事が出来ない。「自分は弱く、不幸で、周りから虐げられているのだから、敬意を払ってもらいたいし、労わってももらいたい」という思いが強くなる。でも、当然、自分より強者にはそれを求める事が出来ないから、自分より弱い人間にそれを求める事になる。

子供と同じで相手には何を言っても良いと思いがちだし、自分の事を弱者だと思っていうので言動をコントロールしなくなる。結果、強い言動で相手の心や肉体を傷付けるのだが、自尊心を傷つける事が相手に一番ダメージを与えるという事を知っているから執拗にそこを狙う。

ちなみに自分を強者と自覚している人間は肉体的にも精神的にも己をコントロールをする傾向があると思う。容易に相手を傷付けてしまう事を理解しているからだ。

では、どう生きていけば良いのか?

構造的差別というのは入れ子の構造になっていて、ある社会では差別者側の人間も別の社会では被差別者側になる。差別は差別者が差別を認識し、自覚をし、言動を変えていかなければ無くならない。自分が差別側にいると認識、自覚をしたら、それによって自分の既得権益を減らす事になったとしても言動を改める人が一定数いなければ世の中は変わらない。勿論、皆が皆強い人間では無いし、前述した通り別の文脈では差別される側の場合もある。それでも、やらねば変わらないのだ。

忙しい毎日の中で「何故自分は生きているのか?」「人生の意味は?」と言う様な事をゆっくり考える時間はあるだろうか?なかなか難しいと思う。

目先の損得や、他人と自分の関係を勝ち負けという観点だけで判断するような世知辛い時代を私たちが生きているという事は知っている。それでも出来る限り多くの人が平和で穏やかに暮らし、明るい未来を子供たちに繋いであげるためには、一人一人が自覚的に、主体的に人生を生きなければそれは実現しないと思っている。

綺麗ごとに聞こえるかもしれないが、例えば非常に現実的でシビアなビジネスにおいても私は儲ける為にどんな手を使っても良いとは考えないし、同じように考える経営者が沢山いる事を知っている。近江商人の『売り手によし、買い手によし、世間によし』の『三方よし』は私のモットーだが、仕事を通して世の中を少しでも良くしたいと心から思っている人達が世界中に存在する。

仕事ですら世の中を良く出来るのだとして、普段の生活やSNSの中でも接する誰かに今までより少しだけ気を使う事で世の中を良く出来るのだとしたら、やらない理由は無いのでは?といつも思っている。

これからの時代は更に激動のものとなっていくんだろう。日本語を使う1億数千万人の人達に求められているのは、内輪で小さなパイを奪い合う争いではなく、皆が出来る限りの創造力と想像力を発揮して子供たちに未来を繋いでいく事だ。いつの時代も人から創造力と想像力を奪い、最後の希望ともいえる己を信じる力をも奪うのが差別だ。私たちの未来はその事を出来るだけ多くの人が認識し、自覚して生きていけるかに懸かっていると思う。

少なくとも、私は身の回りの人達に出来る限りの想像力を持って接していきたい。

という様な事を

今回のTweetを書き、色々な人から反応を頂いて思い、考えたのでした。考えるキッカケをありがとうございました。これまでで一番RT率が高いTweetになりました。特に女性からは思う事を色々とコメント頂きました。迂闊に女性の気持ちがわかるとは言いません。ただ、アメリカでアジア系移民としてマイノリティとして決して生きやすくない社会に暮らしている事で、相対的に弱者である事の辛さやしんどさは感じています。生まれついたアジア人という人種を私は私の意志ではどうにもする事は出来ません。それだけで判断されて見上げられ(あまり無いですが)、見下げられるという理不尽さは自然と私の関心を人種差別や移民問題、差別全般に向けさせることになりました。

1人の人間として、生まれついた世の中の為に何が出来るのか?少しでも世の中を良くする事に力を発揮出来ればと考えています。声を上げる事、発信をする事を自分にとって、また誰かにとっての「考えるキッカケ」と認識しています。沢山のご意見ありがとうございました。今後も継続して考え、声を上げていこうと思います。






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