ひねくれは悪くないけどただひねくれてるのもどうなのよ
「ひねくれ」とか「ナナメの視線」を持っている人って、「面倒くさい」って思われる場合があれば、「面白い」って思われる場合があると思います。
例えば、「サークルの飲み会のノリが苦手」とか「バーベキューに行く意味が分からない」とか。なんとなく世間一般的に「楽しい」とされる事柄に対して、「つまらない」の意見を持っている人のことを言っています。
こういう人に対して10年ぐらい前までは、「飲み会が嫌い」と言ってしまうと「集団に身を置けない面倒くさいヤツ」という烙印が押されていたと思います。
しかし、最近では「飲み会が嫌い」などのひねくれ思想も一つの個性として確立されてきています。その背景には、多様性を認める風潮が浸透してきたことや、芸人さんが豊富なボキャブラリーによる言語化でひねくれ思想を面白さに昇華したことがあります。(オードリー若林さんや南海キャンディーズ山里さんなどが発端だったんじゃないのかなと思っています)
ここで問題になるのが、市民権を得た「ひねくれている」人は、「ひねくれたままでいいのか」ということです。
かつてはひねくれの烙印を押されないために表立っては言えないような雰囲気の中、こそこそと仲間内で「実は飲み会嫌いなんだよね」と声を小にしてストレス発散していたのですが、今となっては市民権を得ています。なんなら、飲み会に参加する前提で話しかけることがハラスメントともとられてしまう時代になってしまいました。
もちろん、嫌々参加しなければならなかった飲み会の出欠に選択権が与えられたのは喜ばしいことなのですが、参加しない権利を振りかざして誘ってもらった厚意を無下にして「ハラスメントだ!」と声高々に叫ぶのは違うんじゃないのかなと思う訳です。
私自身、人を遊びに誘ったりするのは親友でも大の苦手なので、いとも簡単に誘うことができる人を尊敬しています。そして、誘ってもらったときにはすっからかんのスケジュールを確認して「その日は空いてるよ~」などと抜かしながら参加させていただきます。
「すみません、今ちょっと仕事で忙しくて休みもいつになるかわからないんだよね。」を使う時もあります。