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「可愛いが武器…振り回したいじゃん」(以下「かわふり」と表記)感想

昨日、友人からオススメされたセルフプロデュースユニット「太郎物語」主催の舞台、「かわふり」を観てきた。
忘れないうちに感想を書いておこうと思う。

衣装に心を掴まれた

まず心を掴まれたのは、演者の衣装。
奇抜でいて、どこか懐かしい。
官能的ながら品がある。

既存の服をデフォルメし舞台衣装に落とし込んでいる。
この衣装は自身をより自身のありたい形とする、ゲームなどのアバターのような感覚で作られているのかもしれない。

最近の僕は、下記のような背景から、服飾による表現は頭打ちだな、と昨今のファッション業界に対して感じていた。
・シーズン毎の流行という大量消費を促す慣習
・パリコレからファストファッションへの旧態依然としたピラミッド構造
・ヴァーチャル空間の展開による肉体という制限からの開放

たかだか、学生時代服屋でのアルバイトで興味をもち、有名どころのコレクションだけチェックし、本を何冊か読み、暇があればウィンドウショッピングをしたってだけの知識だけど。
そしてこの間やっていたファッションインジャパン1945~2020で、通史的に現代日本ファッションの系譜をみて、ああ、なんともつまらないな、つまらなくなってしまったな、今のファッションってのは、と確信した。

そんな僕の了見があまりに狭いことを「かわふり」は教えてくれた。
ファッション業界の堅苦しいコンテクストを脱ぎ捨て、自身の表現の主題によって紡がれた登場人物が身にまとう衣装は、自由で、「これしかない」と思えるほどにキャストにマッチしていた。

これは、作り手が一方的に自身の主張や表現を服にぶつけるのではなく、それを着る個人を知り、もっと言えば対話を通して創り出したものだからなのだろう。彼等、彼女等は服を着たマネキン人形ではなく、服を以て裸よりもはるかに自由に舞っていた。

表現それ自体が放つ圧倒的な説得力

脚本は、「SNSにより常に他者との比較、他者からの評価にさらされる環境で、アイデンティティ喪失に陥った少女が、親友との交流から自身の原体験を見つめなおすことで立ち直り、新たな経験を積み重ねていく実践(=比較や評価なんて気にせず武器を振り回すこと)によって、未来へと歩んでいく覚悟を決める」というあらすじ。

こう書くと、筋書きとしてはSNS世代にとっては共感できる「あるある」エピソードだ。しかし、この舞台ではこれが圧倒的な説得力で迫ってくる。

それは、このストーリーが導きだした結末、覚悟が、この作品自体に表れているからである。
言い換えると、「可愛いが武器にならないって知って」しまった少女が、「知らないふりして振り回した」姿が、この舞台そのものなのだ。

これがこの舞台の持つ圧倒的な説得力をもたらしている。

個人史にまでに短くなった歴史感覚

この舞台では、主人公が亡くしたアイデンティティを求めて旅をする。

別に旅行に出るわけでは無い。
親友とケンカして距離を置き、他者と対話し、SNSのアカウントを消して現実世界で親友に会いに行く。
要は、今までの「SNS漬けで自撮りを時々上げる」繰り返しの日常から旅立ったということだ。

この度で彼女は何を見つけたか。

それはなんてことはない、過去の自分である。
親友とケンカした中学生の時のこと。同じく、小学生の時のこと。

他者の評価や比較に晒され、自分を見失ったとき、旅に出て見つけてきたのは、ほかでもない。
自分史に立脚する、ただこれだけのことである。

でも、これは僕ら20代にとってはかなり自然な感覚だ。
就職活動での「自己分析」なんかと同じ考え方だ。

僕らの立つ場所に、国家や、民族や、そんな大きな歴史はない。
僕らには蒼き狼の子孫だという自覚や誇りはないし、英霊がどうだとか言われてもピンと来ない。
「代々〇〇家は武士で」と言われてもこの世のどこにサムライがいるの?となってしまう。

歴史感覚がすっかり抜け落ちた世代の僕らは、
20歳の僕らは、たった20年の歴史の上に立つしかないのだ。

さいごに

実にいい舞台だった。
太郎物語の次回の舞台もとっても楽しみだ。
自分の弟と同世代の若人がなにもかもセルフプロデュースでこんなに素晴らしい作品を作ることにも大変刺激を受けた。
最後に、僕にこんな素敵なユニットを教えてくれたD氏には感謝したい。