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所有の概念について

 先日、お金について書いたので、次は所有について書いておきたい。なぜなら、問題の本質は恐らくそこにあるからだ。当たり前の話だが、お金は何かを買う、つまり所有するためにある。もちろんレンタル代として払うこともあるが、それも時限的な所有という意味ではあまり変わらない。つまり、所有という概念がなければ、お金は全く意味を持たない。

 逆を考えてみよう。もしお金がなければ、所有はそれほど簡単ではない。モノは腐るし壊れるし、量が増えれば嵩張るし管理も大変になる。一人の人間が所有できる実物など、それほど膨大になるはずがないのだ。もし仮にそれほど多くの実物を所有し、管理し、有効利用するなら、膨大な人手が必要で、その対価も含めて全て実物で払うような人物は多分、英雄以外の何者でもない。しかし、お金ならいくら所有しても嵩張らないし、腐りも壊れもせず、時間と共に増え、増えれば増えるほどさらに増えていく。だからたった数十人のスーパーリッチが、世界で最も貧しい半分の人たちと同じ資産を持つことが可能なのだ。

 ただ、だからと言って彼らがお金だけ持っているかというと、実はそうではない。なぜなら、お金などただの数字であることは、恐らくお金を持っている人ほど知っているからだ。インフレになればその価値は落ちるし、生産が減って、買うモノが足りなくなれば、お金だけあっても無意味だ。ところが、お金自体は増え続ける仕組みだし、世界人口も増え続けている。つまり、実体の資源は枯渇する一方で、お金だけ増え続けている状態だ。何かの要因で、例えば流行り病などで一気に生産が落ちた時には、お金が急激に紙屑化することは十分あり得ることなのだ。当然、彼らはリスク回避する。お金ではない実物資産に替えていくのだ。特に生産活動に必要な実物資産、例えば土地や株、国債、知的所有権、CO2排出権などに。そうすることによって、永続的に支配を継続することが可能だ。なぜビル・ゲイツがアメリカ最大の個人農地所有者になったのか、その意図はわからないが、それが何を意味するかは誰にでもわかる。アメリカの農地の最も広い範囲を、彼が意のままにできるということだ。それでいいのだろうか?

 ちなみに、これはアメリカやゲイツだけの問題ではなく、恐らく世界中で起きている問題だ。世界的に民営化が進み、何でもお金で買えるようになった。自由市場で一番多く払った人間が所有権を手に入れ、所有者が全て決めるのが現在の仕組みだ。今や地球が丸ごとオークションにかけられ、お金を持った人間がそれを意のままにしているということだ。もちろん日本も例外ではない。アベノミクスの7年の間に、日本の対外負債は350兆程度から800兆にまで膨らんだ。対外負債とは、日本の土地や株などを外国資本に買われている(投資されている)分のことで、皆さんの周りでも外国資本に土地を買われた例を見聞きする機会が増えているだろう。異次元の金融緩和で増やされたお金は、皆さんが通常考える使われ方というよりも、実体資産の所有権獲得のために使われている。

 この問題の論点は二つある。一つは増え続けるお金とその原因となる発行の仕組み。これについて私は10年以上指摘し続けてきた。それが諸悪の根源だと思ってきたからだ。しかし最近、もう一つの方がより本質に近いかもしれないとも思っている。それは所有という概念。結局増え続けるお金はどこへ向かうか。一般的には消費に回る。日々の生活を成り立たせるための価値との交換。これらは回りながら価値を一時的に所有し、消費された価値は消えていく。一方、大きなお金は投資に回る。それはより長い年月に渡って価値を生み、場合によってはさらに大きな価値に膨らんでいく。特に土地は減ることはなく、逆に経済の成長と共に価値を上げていく。だが、その価値を上げた張本人の労働者たちにはそれは回らない。つまり、お金の格差が所有格差を生み出し、それがさらに格差を再生産していく構造だ。何とアンフェアなのだろう。

 我々は少なくとも所有できるものとできないものを明確に分けなければならない。特に土地などは、ほとんど高度経済成長期に生きた年長者や発展した企業に占有され、世代間格差が激しい。そもそも、無数の命が生きるこの地球で、土地を人間が所有するという考えそのものがどうかしている。我々が今、本当に手放さなければならないのは、お金の概念以前に、所有の概念かもしれない。あらゆる人間関係から国家間の争いまで、何かを所有できる、支配できると思うところから始まっているように見える。所詮この世の全てのものは、自分の体も含めて「かりそめ」ということを忘れ、いつまで我々は狭い認知の中でしがみつき続けるのだろう。早く手放せば楽になるのに。あ、それも「所有」したいのか(笑)。

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