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お金はエネルギーではない

 お金がエネルギーであると言う人がいるが、実は私はこの言葉だけは看過できない。なぜなら、お金の本質を伝え続けている私からすると、その本質はエネルギーとは全く異質であることがわかるからだ。

 お金はそもそもゼロサムの概念だ。借金と表裏一体で発行され、借金を返せばお金は消える。つまり、みんなが平等に手にすることはないし、必ず格差が生まれる。ゼロサムだから、仮に平等にお金と借金を手にすることになれば、みんながゼロになる。そんなエネルギーがあるだろうか。

 このお金の本質は、その動き方にも特徴が現れる。お金がエネルギーと言う人は、エネルギーだから循環するとか、気持ちよく使えば戻ってくるとか、何かを引き寄せるとか言うが、残念ながらそうとは限らない。お金はうまく循環しないし、一旦手放すと戻って来る保証はない。なぜなら、金利によって一部に集積する仕組みになっているからだ。手放せば、ゼロサムのマイナスの部分が自分に回って来かねない。

 ただ、私はお金はエネルギーという言葉は明確に否定するが、それを言う人たちを否定するつもりはない。言いたいことは何となくわかるし、それで上手く行った経験があり、それを誰かに伝えたいという善意なのだろう。だが、それならもう少し本質を突き詰めて欲しいとも思う。大事なことはお金の使い方(または受け取り方)なのか、その時にやり取りする価値や気持ちのありようなのかということだ。 

 当たり前の話だが、お金自体には何の価値もない。それで買える価値が富の本質だし、その交換が経済の本質だ。もしお金がエネルギーと言っている人が上手く行っているとすれば、それは恐らく、その時にやりとりする価値そのものの質や、気持ちのありようが要因であって、お金なしでもそれは成立する。つまりそれは、その時の自分自身の問題であるということだ。もちろんそれがわかっているから、敢えてそのような表現で気持ちを変えようとしているのかもしれない。しかし、結局それはお金の思い込みを外すことにはならない。なぜなら、伝える側も受け取る側も、その時点で暗にお金を求め、そこに囚われているからだ。

 問題は、なぜそれほどまでに我々はお金に囚われるのか、ということだ。それは、あまりにもお金がオールマイティーであり、いかにもそれがエネルギーかのように、それがないと何もできないと思い込まされているからだ。そして、それが多くの人の行動の動機になっている。しかし、実際のエネルギーは実体資源であり、我々自身の中にあるものだ。それを動かすのは我々の意志であり、意志は我々の中から湧き上がるものだ。しかし、お金がそれを歪め、本当のエネルギーを浪費させ、循環を阻害する。その仕組みの中で、仮に人類全てがお金のブロックを外したところで、このゼロサムゲームは必ず勝者と敗者を作り出し、永遠に万人にとっての解決策にはならない。それはあなたが他人よりも優位に立つことを助けるかもしれないが、それでは今のお金が作り出す世界観そのものだ。我々は全く違う世界を創造しなければならない。

 その意味で私は、是非お金がエネルギーであると言う人たちとも協力したいと思っている。なぜなら、恐らくその目的は同じだからだ。あまりにお金の支配が極まり、それによって思うように生きられない人たちが大量に出る中で、その人たちを解放しようとしていることは容易に想像がつく。ただ、問題は仕組みだ。このゼロサムの仕組みを変えない限り、みんなを解放することはできない。それをせずにブロックを外せと言っても、結局違う角度から自己責任を負わせるのと同じだ。むしろ、現代のお金の仕組みを、事実に基づいて正確に伝え、「仕組みのせいである」ことを明確に理解してもらった方が、遥かに精神的に解放されると私は考えている。なぜなら、仕組み自体がアンフェアでどうしようもないことがわかれば、少なくとも自分を責める必要はないし、それがいかに虚構の概念かがわかれば、それ以外の大事な価値に従って判断できるようになる。今まさに、人類がお金という虚構の呪縛から解放されようとしている時に、この時代に生まれて来た人は皆、それを実現する同志だ。できれば精神論ではなく、現実にある仕組みを変えることによって、一緒にそれを実現できたらと考えている。したがって、お金のリアルな仕組みを知りたい方、知らせたい方、是非大西つねきを使って欲しい。

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