不殺生(アヒンサー)の本質「生かされているということ」

「不殺生(アヒンサー)の誓い」と、「最強を求める戦士」は一見相反しているように見えるが、同じ原理が働いている。

その原理とはなにか?

僧侶は、不殺生(アヒンサー)の誓いを立てる。
「生き物を殺さない。他の生命を傷つけない」と。
これは戒めとして、ただ守るべきルールではない。
その本質はなにか?

それは、虫一匹殺すことができないほど、「無力になりきる」ということだと考えられる。
僧侶(出家者)は無力を求める。
そうして、一切の関わりを断ち、所有物を放棄し、托鉢し、生活の糧を得るための生産すらやめてしまう。

無力になった僧侶は、なぜ生きていけるのだろうか?

このとき、僧侶は「神」を見る
自らの意思で生きるのではなく、生かされているのだと知るのだ。

分離(対立)を克服するためには、その分離を作り出す自我を放棄することだ。
それは、僧侶にとって無力に成りきること。

盗まないのではなく、「与えられていないものは、手に取らない」
そして知るのだ。
人は、天から与えられなければなにも受け取ることができない、と。

そして、このことが出家をする意味ともなる。


もう一方に、
「最強の戦士は、最強の敵を求める」がある。

ある戦士の物語りを聞いて、不思議に思ったことがあった。「最強の戦士は、最強の敵を求める」というものだ。
なぜわざわざ打ち負かされそうな敵に向かうのか?

愛する人のために戦うとしよう。負けてしまっては意味がないではないか。

戦いが楽しくて、競争心のようなものなのだろうか?しかし、そのような戦士は最強にはなれないだろう。

最強の戦士は、戦いのためにすべてを捧げ、禁欲し、自己を律し、寡黙だ。

なぜそうまでして戦うのか?
なぜ最強の戦士は、最強の敵を求めるのか?

それは命をかけて戦うことを求めるからだ。
普通、多くの戦士は命をかけては戦わない。そのため、戦争は大局が決まると、負けたほうは崩れて逃走する。
しかし、最強の戦士は死を恐れない。
「神」に命を捧げる
君主や家族のために命を捧げようとしても、本当に命の危機に直面したとき、逃げ出してしまうかもしれない。

自分より弱い敵には、命をかけて戦う必要はない。そのため、最強の敵を求めるのだ。
もし自分より強い敵と戦って負けた場合、自らを誇って良いだろう。まさに神に命を捧げたのだから。

もし自分より強い敵に勝つことができたとしたとしよう。
なぜ勝つことができたのだろうか?

そのとき戦士は「神」を見る。
自分にはできないことが、「神」の助けによって可能となったのだ。
そうして、戦士は神に「生かされている」と知るのだ。

戦士は、最強を求めることによって、自らを超えたもの(神)に出会うのだ。
そして、最強の敵とは、恐れの象徴であり、「自我」のことだ。

無力な僧侶と最強の戦士に共通の原理とは、自らの命(自我)を捧げること。
そうして、対立(二元性)を克服し、本当の生命を見出す。
本当の生命とは、生きるものではなく、生かされるもの。

抽象的に言うならば、僧侶は0(ゼロ)を目指し、戦士は無限を目指す。「力」を超えたとき、それらから解放されるとき、両者は同じもの(0=∞)となる。そのとき、力を使うか使わないかは問題ではならなくなる。

そして、このことはさらに「自分の最も大事なものを捧げること」を意味している。
それが、聖書では、自分の子供であったり、生活を支える唯一の財産である牛であったりする。
自我を克服するために、自己を完全に明け渡すことが求められるのだ。

このことが理解されないと、他の人の子供を人身供養したり、牛を血祭りに上げる儀式などをし始めてしまう。恐ろしいことだ。

自分が手放してもいいと思えるようなものを捧げて、神は喜ぶだろうか?
それがバレていないと言えるだろうか?
神はお見通りなのだ。

これは自己犠牲だろうか?
「我慢しなければ、幸福にはなれない」と、誰が言うのだろうか?

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、福音のために生命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな対価を支払えようか。

「ルカによる福音書」

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