仏教の呼吸への気づきの瞑想であるアーナーパーナ・サティについて、「Vipassana Q&A マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法」より抜粋を紹介しておこう。
サマタとヴィパッサナーについては、詳細として、以下の記事でも考察している。
清浄道論は注釈書であるが、とくにスリランカ、ミャンマーの伝統では聖典ほどの権威を持つ。
もちろん私もそれらを否定するつもりはないが、伝統の持つ限界の一面が見られる回答である。
宗教を学ぶとき、聖典(原典)なのか、注釈(解釈)なのか、伝統的な慣習なのか、よく確認しておかなければいけない。
二つ目の点である、鼻の先の一ヶ所に固定するのは、観照においては必要になるため、このことがサマタ瞑想(禅定)を意図しているとは限らない。
経典(経蔵)の説明は、多くは結論であって、プロセスを解説はしていない(プロセスの解説が注釈)。そのため、初心者は鼻先の固定はできない。しかし、ヴィパッサナー瞑想を進めていくと、注意のポイントは自然と動かなくなっていく。アーナーパーナにおいては、それが鼻先である。
アーナーパーナ・サティ・スッタ(経典)では、「足を組んで座る」とある。これは伝統的には結跏趺坐(蓮華座)であるとされる。蓮華座の場合、リラックスすると自然と視線は鼻先になる。もし達人座の場合には、視線は眉間になるだろう。つまり、自然状態での視線(注意のポイント)は定まっている。
しかし、引用にあるように、呼吸を追いかけていってしまっては、一向に気づきは深まっていかない。
視線を固定しながら、対象を外すことがヴィパッサナー瞑想では求められる。
瞑想指導の現場では、実際にそうであるように経蔵を用いられることはあまりない。もし鼻先に意識を固定してヴィパッサナー瞑想をするように指導したら、ほとんど誰もできないだろう。なぜなら、それはほとんど完成された姿を示しているからだ。
ヴィパッサナー瞑想=「観照」については、以下の記事にてやり方など解説している。
以下では、アーナーパーナ・サティの瞑想を解説した。
また、ヒンドゥーにおいての(ジニャーナ)プラーナヤマは、アーナーパーナ・サティと同様のものであり、とても参考になる。