この世の中をリーダーとフォロワーに分けるとして、前回の内容のポイントで書き出すと フォロワー各々の創り出す「世界」は、リーダーの創る「世界」に依存 フォロワーは自身の「世界」が壊れるのは困るため、リーダーの「世界」を護る振る舞いをする それらを忖度ともいう つまり何が言いたいのかというと、 忖度に限らず人間の他者に対するあらゆる振る舞いは、自身の「世界」を守るための利己的な行動であるともいえる。 目の前の大切な人が幸せでいて欲しいのは、 目の前の大切な人に泣いて欲し
前回「リーダーであればあるほど大きく世界を動かすことが出来る」と書きました。 実体の世界を大きく動かしているのは、つまり大丈夫数多の何かしらのリーダーが動かしているといっても良いかもしれません。 リーダーによって動かされている世界が、一般庶民(あ、私もその1人よ^^;)の目の前に広がっています。 それは私たちにとっての「世界」でもあります。 人は「世界」を自らの手のコントロールで変化させたいという欲を持ってますが、一般庶民ほどその力の及ぶ範囲は限られていますので「世界
目の前に世界が広がっています。 世界には課題がたくさん転がっています。 地球温暖化や紛争、差別、貧困、貧富の格差… また、自分の身近な周りにも課題は転がっています。 仕事、家庭、人付き合い、自己実現… それら全てはその人にとっての「世界」 人はその「世界」を可能な限りコントロールして課題を解決したいと望みますし、自分で動ける範囲は自分で動いたり、動かせる人を動かしたり。 自分の目には映りつつも、自分ではどうすることも出来ない課題は諦めるか、もしくは何かしら権力者(リ
人間ってのは 「“世界"をコントロールしたいという欲望(しないと怖いという本能)を持ってしまった生き物」 ってのが前回のお話。 実は、これについてはもうちょっと分けられるんじゃないかと考えてます。 結論から言うと 「リーダー」タイプと 「フォロワー」タイプ 人は世界が 「自分が納得できるかたち」≒「自分の予測通り」 に回ってさえいれば安心な訳で それを前者は自分で行い、後者は信用できる(信用したい)他者に委ねる 集団でいるときに、あまり自己主張をしない人が大体居た
前回は科学は宗教みたいなものということについて書いたが、そこで言いたかったのは「人間は宗教(≒幻想)を通さなければこの世界を捉えることが出来ない」ということ。 今回、もうちょっと掘り下げてみる。 そもそも、身の回りに起こっている出来事を“世界”として捉えたいという気持ち?怖れ?こそが、この人間の特性かもしれない。 “世界という概念”自体が特有がというか。 人間は身体を環境適応させていくことより、身の回りの環境自体を大きく変える能力に優れているところが、他の生物とはかな
私たちは、身の回りに起こっているあらゆる出来事について、身体の感覚器官だけでは知覚できない多くのことを数字や科学というものに頼りながら把握している。 体温計によって風邪であることを再認識することもそう。 また、それらは今だけでなく過去や未来とが一連に繋がっているという時間的な因果関係があることなども理解させてくれる。 飛行機に乗れば東京に着く、食べ物を長くほっておくと雑菌が繁殖して腐る、今日が晴れの日でも天気予報によると数日後には台風がやってくるそうだ、など。 アップ
ちょいとここらでこの物語の前提条件を整理。 狩猟(貝塚)時代、このとき日本は平安初期•中期、もしくはそれ以前における沖縄の「地元民」(←一応カッコ書きしときます)はかなり少人数で、商売人目的で訪れる人らがまあまあ居ただろう 効率良く商売するには、本土の商売人がうまく地元民をまとめて協業でプロジェクト(貝の捕獲など)を進めてたのだろう そのときの沖縄には無い食べ物(米、お酒も!)などは、かなり貴重で地元民を動かすためのインセンティブになったかもしれない そんな本土とのや
この山の頂からは私の集落が一望できる。 それだけでなく、東西の海も見え、島の形がなんとなく分かるくらいに島の大部分を見渡すことができる。 この集落で“神ごと”を執り行うのが私の役割だ。神が降り立つこの山の頂で神ごとを行う。 天の恵みを田畑から得られるよう、暦を読み、然るべき日にその恵みを神へと捧げる。そうすることで、また次の時期に恵みをいただくことができる。 私の一族は、古くから島の外でその役割を担ってきたそうだ。 私の父は若かりし頃、一族の者ら数名とともに住み慣れ
土から食べ物を作ることができるようになってきた。 しかも、土から作った食べ物は採ってからしばらく置いておくことができる。 海から獲ってきたものはそれができない。 海が荒れた日が続くと、食べるものが獲れなくなって困ってしまう。 今は、土から作った食べ物があるおかげで、前よりは困らなくなってきた。 だけど、食べ物を土から作るのは難しい。 たくさん採れるときもあれば、ぜんぜん採れないときもある。 もうすぐ採れると思ったら虫や獣に先に食べられてしまうこともある。 雨が降ら
貝塚時代、人々は海の近くで貝などを獲って暮らしていたという。海は豊かで食べ物に困ることはあまり無い。 … たまに海の向こうから、遠いところに住んでる人たちがやってくる。 その人らは「大きい貝が欲しい」とのことだ。獲ってあげると、お礼に見たことのない珍しいものや、普段食べたことのない美味しいものをくれた。 遠いところの人たちは、船に大きな貝をたくさん載せて満足そうに帰ってゆく。 また次の季節にもその人らはやってきた。 ぼくらは仲間と一緒にたくさん貝を獲り、その人たち