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自信と書くこと「イワシとシラス」

 というわけで、下の子の夏休みの研究はシラスでした。
 ちょっと前に流行ったチリモン、ちりめんモンスター。
 チリモン図鑑という超絶便利なサイトがあるので小さなカニやらシャコやらみんなだいたい判明しました。ありがとうきしわだ自然資料館のチリモン図鑑。

 一緒に眺めていて思ったのですが、理科の研究は実験。「仮説、検証、結果」みたいなやつ。あれは論理立てて思考するという構造がわかってないと絶対できない。私は全くわかってなくてそれができない。
今回のは調べ研究。図書館で調べる。調べて答え、疑問出して答え、答えは引用元を記載。の繰り返し。(だそうだ。娘の担任のS先生がそう手書きメモくれた。詳しくないので、詳しい人ごめんなさい)
 後者は私が子供の頃に存在してなかった気がする、、、、、 思い起こせば誰も、理科の研究や報告書の書き方教えてくれなかった。父も母も理系で実験とかしてたくせに、細かいだけ細かくて書き方がどうにもすっと頭に入ってこない。プンスコ。小学校の時同級生が1人、観察の記録を書いてきて、めちゃくちゃうまくてびっくりした。医者の娘だった。本当に構造を理解している人がレクチャーしたんだなって思った。きっと構造だ。構造がわかってる人じゃなきゃ伝えられないんだ。子供の頃に、こんな論理的思考を教えてくれた人はいなかったなぁとか思い起こしてしまう一抹の寂しさ。いや、私が気づかなかっただけかもしれませんが。

 で、そんな風に生きてきた私は今、ともかく自信を持って自分の「疑問、仮説、実験、結果」を視覚化するっていう仕事を子供達とやってるんだなって思ったわけです。過程を視覚化っていうか。
 作品を「つくる」って、本当はこれらがひっくるめられて、実在の道具を使って実在の材料で出来上がるもの。
 「研究報告」も「論文」も「作品」もおんなじなんだって、そういえば美術教育のU先生がおっしゃってました。

 調べ研究がどんな形が美しい最終形態なもんなのか、まだわかりかねるところがあるんだけれど、学びを楽しんで、無理なく進めるには上記の「疑問、仮説、実験、結果」のうちの前二つが自信を持ってできないと目に見える「実感と結果」へ進めないんじゃないでしょうか、、、、
 そう漠然と子供らの夏休みと、生徒たちの必死のポートフォリオ作成を見ていて思いました、、、、

 よく、自分を受け入れてもらった環境で人はのびのびとできるといいますが、与えられるだけでなく、環境自体に主体的に関わっていく相乗効果を狙いたいですよね、、、、、 この環境がいいから「自分の中に浮かんだ疑問を認識できる」のは当たり前で、自分自身が疑問を抱ける体制にあるかどうか、それが研究や調べ物に向かうスタートかなぁと思えるのです。
 環境ってものすごい大事だけど作りきれなくて頓挫する時あるじゃないですか。だって、環境ってそこが勝手に自転して息吸って吐いてくみたいな生き物みたいなところあるから自分ではどうこうできない他人にもどうこうできないみたいな。でも、小さなことなんですけど少しずつ自分も同時にやれることがあって、その部分は自分自身で獲得してけば、「自分の中と自分の外(環境)」というのは掛け算してよくなってくんじゃないだろうかと思うんですよね、、、、、。
 書けること、考えられること、考えていいんだ、みたいなものを自分の中でぐるぐると築き上げることができたら、その子の周りが良い環境になるんだよな。


 昨夜偶然チリモンの書籍の方のイラスト描いているいずもりようさんのツイートが流れてきました。


 なんだかどっかで見た光景だなぁと寂しくなったのもあるし、あまりに似た場所に立ってる気がして、upするかしないか迷ってたこの文章の後半を書くことにしました。本当は、イワシが小さくなったらシラスになるっていう話で終わってたわけです。
 まだ、蝉が泣いています。

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