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逆時の住人(1)

 寝付けない中学二年の今村貴音(いまむら きね)は、祖父の書斎のドアを押し開いた。
三年前に亡くなった祖父の書斎は、手つかずのまま残されている。生前、祖父が貴音の両親に遺した手紙には、「貴音に書斎の全てを譲る」と書かれていたそうだ。貴音も含めて、祖父の真意が全く分からないまま、三年もの間そのままにしている。
 主を失った書斎は、時間が止まっているよう。ウィンドウベンチの窓から月明かりが書斎へと差し込んでいる。ドアを開けた時に舞った埃が月明かりに照らされて、キラキラ光って見える。
 窓辺には、天体望遠鏡が置かれている。近くの本棚には、物理学者だった祖父が研究のために書き溜めたノートがぎっしりと並べられていた。祖父の愛した書籍や実験器具もそのまま残されている。それらの遺された物を見ていると、貴音は祖父が今も傍に居るような錯覚を抱く。
 貴音は恐る恐る書斎に足を踏み入れ、天体望遠鏡に近づいた。そっと手を伸ばして触れるとひんやりとした冷たさが貴音の全身を伝い、キュッと体を引き締めさせた。その冷たさは、貴音に幼かった頃の記憶を呼び起こさせた。
 
貴音が初めて書斎に入ったのは七歳ときだ。今みたいに恐る恐るドアを押し開けたときだった。窓辺で天体望遠鏡を覗き込んでいた祖父は、貴音を見ると喜んで書斎に招き入れた。そして、自身が覗き込んでいた天体望遠鏡を貴音にも覗かせた。その時から、貴音は祖父からいろいろなことを学んだ。星座の名前や星の成り立ち、宇宙の不思議や神秘を祖父は貴音に優しく教えてくれた。
――ほら見てごらん、あれがオリオン座だ。その下には、星々が生まれる場所、オリオン大星雲がある。宇宙にはまだまだ謎が多くあるんだ。
 祖父の声が遺る書斎の本棚から、貴音は一冊の絵本を手に取った。
「かぐや姫物語」は、祖父が何度も貴音に読み聞かせてくれた絵本だ。祖父は貴音を膝の上に座らせウィンドウベンチに腰掛けながら温かな手と、テナーサックスのような優しく耳に残る声で読み聞かせした後は、決まって夜空を見上げていた。その時の祖父の顔が、どこか寂しそうだったことを貴音は忘れられずにいた。

 貴音が小学校を四年生の頃、毎晩のように貴音は書斎に来て、祖父と宇宙の話や自然界の解明されていない謎について議論を交わす時間が何よりも楽しかった。
 祖父は、貴音の考え方を決して否定することはしなかった。間違っていたとしても訂正することもしなかった。祖父の貴音への眼差しは、いつも柔和でいていつも紳士的だった。
祖父が体を壊し入院生活が続くようになると、貴音の足は自然と書斎から遠のいた。祖父が亡くなる1ヵ月前だっただろうか。祖父の病状は依然として油断を許さない状況であったが、祖父は自宅療養を強く望んだ。そして、亡くなる一週間前には、一日中一人で書斎に籠ることが多かった。貴音も両親も心配してドアをノックしたが「実験中は、入らないでくれ!」と祖父は誰一人として入室を許さなかった。
祖父が最期に、貴音の手を握り締めたのは息を引き取るときだった。祖父は手に持っていたアクアマリンを雫型に加工して造られたペンダントを貴音に渡した。
貴音はその時の冷たくて、ガサガサした祖父の手の感触を思い出しては、時と共に一つ一つ消えていく思い出を必死に繋ぎ止めようとするのだった。貴音の部屋の机には、今も祖父から貰ったペンダントが大切に置かれている。


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