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Rainbow⑮

 旋風➁

 七月中旬、世界中を駆け巡るニュースがあった。
 活動を休止していた世界的に有名なドラァグクイーンの女王、エリーシャが沖縄本島よりさらに南に位置する石垣島で、三年ぶりのドラァグクイーンショーを開催するというものだ。しかも、日本全土で活動しているエリーシャの仲間たちが、ショーを盛り上げるために集まるという。その数は未知数だ。ある新聞社によると、仲間たちは推定で五十名を軽く超えるとされている。エリーシャとその仲間、ドラァグクイーンのファンやショーのスタッフを合わせると、約三万から四万人の来島者数が見込まれる。これは石垣島にとって前例のない事態であり、島の行政関係団体や宿泊施設は突然忙しくなり始めた。なぜなら、推定される来島者数は、日本最大のミュージックフェス、フジロックの一日の入場者数に匹敵するからだ。人口約五万人の石垣島は、今や世界中の注目の的になっていた。
 このニュースは、真里の耳にも届いていた。どのようなショーになるのか興味をそそられるものの、劇団やダンス教室も休んでいる現在の自分の精神状態では、どんなに素晴らしいものを見ても心が踊ることはないだろう。真里は消極的な感情に自分の意思を落とし込んでいた。そんなある日の夜、琴美が「どうしても聞いてほしい話がある」と言って真里の家に来た。
 琴美と話すのは何となく気まずい。その原因が自分にあるからだ。真里は突然の琴美の訪問に困惑した。しかし、琴美の家から真里の家までは、決して近くはない。真里は、学校では琴美に対して冷たい態度をとってしまっていた。本当はもっとちゃんと話せるはずなのに。――そんな思いが真里を苦しめていた。
 真里と琴美は、家の近くの白保海岸に向かって歩いた。途中、真里はついに琴美から決断を迫られるのではないかと身構えた。真里は劇団の練習を二ヶ月も休んでおり、そろそろ「劇団を続けるのは無理だ」と琴美に告げるべきかと思っていた。しかし、琴美からの話は意外にもドラァグクイーンショーのことだった。琴美はなぜか様々な情報を持っていた。
 「ねえ、ニュース見た?石垣島に世界的スター、ドラァグクイーンのエリーシャが来るんだって!しかも、ショーのバックダンサーを地元のダンサーからオーディションで選ぶんだって。三日間の選考合宿らしいよ。あ、これ秘密ね。まだあまり公にはされていないから」琴美は、口元に人差し指を当てて真里に笑顔を向けた。
 真里は琴美の笑顔に心を軽くした。いつもの琴美だ。それに安堵しつつも、真里はつい冷たい口調で「話したいのは、それだけ?」と言ってしまった。しかし、琴美が真里の言葉を遮ったときの声のトーンはいつもと違っていた。海岸には波の音が響いていたが、真里には琴美の声しか聞こえなかった。
 「あのね、私もそのオーディションを受けようと思ってるの。受けてみて、オーディションに落ちたら、劇団を辞める!」
「ちょっと待って!琴美は劇団で主に役を演じてきて、ダンスはみんなで踊るときくらいしか経験がないでしょ?無茶だよ、オーディションを受けるなんて」
「私はそう思わない!」琴美はきっぱりと真里に言い返した。真里は琴美の言葉に圧倒された。琴美の決意が半端なものではなく、本気であることを感じた。真里の目を真っ直ぐ見つめながら、琴美は続けた。
「真里はどうなの?いつまで自分の気持ちに嘘をつき続けるつもり?いつまで自分を卑下しているの?真里だって、踊りたいんでしょ。本当は劇団にも戻りたいんじゃないの?」
「琴美にはわからないよ。私の気持ちなんて。……」
「何?わかってほしかったの?そんなこと、言われなきゃわからないよ。私は真里じゃないもん。自分の気持ちを相手に伝えたいなら、ちゃんと言葉で言ってよ。いきなり来なくなったり、話し合おうとしても拒否するし……わからないよ。ちゃんと言ってくれなきゃ、わからない!」琴美は全力の言葉を真里に投げた。真里は言葉に詰まった。先ほどの琴美への言葉は、自分に都合のいいことばかり言っているだけだったと気づかされた。「わかってほしい……?」いや、そうではなく、「私自身が私の気持ちを理解していない」――真里は、自分が自分の本当の気持ちを曖昧にして、決断や覚悟から逃げてきたことに今気づいた。いつからか、自分の感情をさらけ出すことを恐れるようになっていた。かつては劇団で思いのままに自分を表現していたが、最近は周囲を気にして言いたいことも言えなくなっていた。いや、周囲のせいにしてはいけない。自分の内面の弱さを認めることが怖くて、目をそらしていただけだった。白保海岸の波音が、まるで真里の心を洗い流すかのように耳元で聞こえてきた。真里は堤防から暗い海を見渡しながら、琴美を見ずに話した。
 「私……まだ自分の気持ちがよくわからないの。変だよね。自分のことなのに、自分が一番わからないなんて」真里の声は震えていた。目には涙があふれていた。琴美は、真里のそばに立ち、その体を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ。真里は今、本当の自分を見つけようとしているんだから。真里ならきっと見つけられる。だって、真里は私の憧れなんだもの」琴美は、真里の顔をのぞき込んで笑った。以前なら、私が琴美にそうしていたはずなのに、いつの間にか琴美が自分よりも成長していたことに、真里は気づいた。
「ほら、泣き虫真里ちゃん。帰る時間だよ」
「もう、何よ。子供扱いしないで。琴美には、そうされたくなかったのに」真里の顔にも笑顔がこぼれた。
「はい、これ。オーディションの申込用紙。真里が気持ちを整理できたら、返事を聞かせてね」琴美は、真里に申込書を渡すと、来た道を戻って行った。
「ありがとう!」真里が琴美の背中に向かってそう叫ぶと、琴美は振り向いて「私、負けないからね!もし真里がオーディションを受けることになっても、私が勝つから!」と言いながら、拳を高く掲げて笑顔を向け、帰っていった。

 耳を澄ませば、白保村の夏の風物詩、獅子舞の三線の音が風に乗って聞こえてくる。今はまだ練習段階で、1ヶ月後の旧盆での本番に向けて、夜遅くまで三線や太鼓の音が鳴り響く。これを聞くと、真里はいよいよ夏が来たと感じる。夜空を仰ぎ見ると、そこには満天の星がくっきりと輝いていた。
(つづく)

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