Rainbow➁【創作大賞2024/オールカテゴリ部門】
第2章 不協和音
四月になり、石垣島の商業高校の三年生になった真里は、漠然とした夢を持っていた。それは、この年頃にはよくありがちなことだ。得意なダンスを生かして、エンターテインメントパークのキャストをしたい。とか、テレビなどに出演できるバックダンサーになりたい。とか。希望や夢が先行して頭の中を巡り、現実や挫折は後からどうにでも対処できる。と、鷹を括っている節がある。それが「若さ」だと言えば、その通りなのだ。しかし、真里に限っては、自身の内面に「漠然」が染みついているため、彼女の潜在能力を存分に発揮できない要因になっている。
真里が高校進学を考えるときも、「観光」という言葉から「エンターテイメント」を連想し、その漠然としたままで受験したばかりに、面接で「本校の観光コースを志願した理由は、何ですか?」と訊かれたとき、真里はようやく、自分が受験した高校には「観光コース」以外にも、「会計システムコース」や「情報ビジネスコース」があることを知った。大した理由もなく「観光コース」を選んだことをそのまま面接官に伝えるわけにはいかないので、その場凌ぎの言葉を見繕って「幼い頃から郷土の文化に興味がありまして、観光コースでそれが学べたらいいなと思い受験しました」と適当なことを言って応えた。すると、三人いる面接官の中の一人。はっきりとした目鼻立ちに、髪型はパイナップルのようで、サイドカットにパーマ。髪の色は赤茶色。青色のジャケット、グレーのパンツの裾からは長い脚が飛び出している。座っていても分かるくらいにすらっとした体型の、明らかに左に座る中年とは違う雰囲気を纏った40歳半ばぐらいの男性面接官が、大きな瞳を真里に向け、両手の甲の上に顔をもたげながら、少し挑発的というか興味本位とでもいうような眼差しで真里を見つめ、言った。
「へえ、地域の伝統文化に興味があるっていうのは素晴らしい心掛けね。島を愛する者は、島からも愛される。合格したら、もっと島の伝統文化を学ぶといいわ。でも、本当は、何を学びに来たかったのかしら?」
真里は、彼の最後の一言にぎくっとした。動揺が表情に出ていたかもしれない。笑顔が引き攣っているのを自覚しているあたり、それは相当なのかも。青いジャケットの面接官は、まるで狩りをするライオンのように、真里の目を捉えて離さない。そうなると、真里はもはや諦観した草食動物のように、首を項垂れるしかなかった。真里の目に自分の足と床が見え掛けたとき、豪快な笑い声が面接室に響いた。
「あなたたちは、本当にそっくりね。……学びの門は何人にも常に開かれている。あなたが学びたいことは、あなた自身で見つけなさい。与えられた学びは、腐った食材。新鮮な食材が欲しければ、自分の目で目利きし足を運び、手塩にかける。そして、最高の食材に出会ったのなら、それを心に刻みなさい」
彼のその言葉は、二年経った今も真里の心に遺っている。
高校に入学したとき、面接官だった青いジャケットの先生は既に高校にはいなかった。真里は、同じコースの先輩に、あのときの先生はどこの高校に転勤されたのかを聞いてみたことがあるが、彼の転勤先は誰も知らなかった。おそらく先生を辞めたのではないかと、先輩は言っていた。その先生の名前は楠田朋樹という。真里は、「青いジャケットの彼」と記憶の引き出しの中にしまっておくことにした。
商業高校の観光コースには、海外からの観光客にも対応できるように、中国語や英語の言語習得があり、その他にもマーケティング戦略の授業などもあった。実践する機会も授業のプログラムに組まれていたので、中国から来島する観光客を相手に島の紹介もした。
真里が何よりも楽しみだったのは、郷土の文化や歴史を学ぶ授業だ。面接のときは適当に応えてしまったが、実は本当に学びたい授業の一つだった。
真里は地元の子ども劇団に、小学四年生の頃から入団している。その劇団では、石垣島の郷土文化や歴史を題材に毎年公演を行っている。年間のカリキュラムには、郷土の学習も組まれている。劇団のメンバー全員でバスに乗り、石垣島の歴史をガイドの方が詳しく説明してくれる。メンバーの殆どは、ピクニック気分で参加していたが、真里は、ガイドの方の説明をノートにメモしたり質問したりしていた。
実をいうと、真里の家族は、石垣島とは縁もゆかりもない。真里の両親は、父親の史は埼玉県出身で、母親の千夏は北海道出身。二人は東京で知り合って結婚し、真里を産んだ。真里が小学二年生の十二月に、家族旅行でたまたま石垣島を訪れたとき、石垣島の子ども劇団公演があり、観劇したことをきっかけに、真里は、「この劇団に入って、踊ってみたい!」と思った。その次の年も、公演を観劇するためだけに家族で石垣島を訪れた。両親は、真里の熱意を尊重して石垣島の白保村にある海岸近くの家を購入し移り住んだ。真里にとって、石垣島の歴史を学ぶことやこの劇団で踊ることは、「自分が自分らしく生きていること」だと感じていた。
石垣島には、「オヤケアカハチ」という人物の英雄談が語り継がれている。一五〇〇年代の八重山は、旱魃などで自分の今日一日の生活さえ苦しい状況の中、琉球王府からの年貢の取り立てが年々増え、民たちの不満は増していった。そんなときに先導役になったのが、オヤケアカハチだ。彼は史実では、琉球政府に楯突いた逆賊と罵られている。だがしかし、見方を変えれば、八重山の民たちの代弁者であり、民たちの身代わりとなり自らの命を賭した英雄。――真里は、この「オヤケアカハチ」の話が好きだ。リーダーとして、自ら嫌われ役になり、正義を盾に強大な力と対峙したオヤケアカハチ。まさに、真里が目指しているリーダー像だった。
高校三年は、劇団卒業の年になる。真里は役を演じるよりもダンスが好きなので、小学四年からこれまでの七年間をダンスチームで演舞している。
今年は最後の年だけれど、気掛かりなことが一つあった。それは、昨年、役者希望者が二人辞めてしまい、ダンスメンバーから役者への転向が必要なことだ。真里は出来ることなら最後までダンスチームで卒業したいと思っている。
昨年は、ダンスチームのリーダーとして、チームメンバーをとことん鍛えた。手の角度や表情など、細かなところまで声を掛けて指導したし、OBやOGからも「ダンスの仕上がりがいい」と褒められた。今年は、これまでのダンスに少しアレンジを加えてみたいと真里はいくつかの構想を頭の中で描いていた。
『きっと今年もダンスリーダーを任されるはず。だって、劇団のメンバーの中で私が一番踊れるんだから』
真里は、朝の日課のダンスを終え、砂浜の流木に座りながら海を眺めた。そして、明日から始まる劇団の稽古のことを考えていた。
***
「は?! どういうこと。意味分かんない!」劇団の稽古初日、全体練習が終わりリーダーミーティングの時だった。あまりにも突然のことで、真里は冷静さを見失っていた。
リーダーミーティングには、OBのマサキさんと役者リーダーの琴美、副リーダーの彩音。それからダンスリーダーの真里と副リーダーの宏太が参加していて、リーダーは共に最上級生が務める慣例だった。副リーダーは、一つ年下のメンバーが引き継ぎも兼ねて務めるのが常だった。昨年は、ダンスメンバーの最上級生が真里しかいなかったので、真里がリーダーを務めた。
「真里は、去年もリーダーだったし、これまで一度も役者をしたことなかったでしょ? だから、OBのマサキさんとも話してたんだけど。……真里なら役者も十分できると思うの。だから、お願い。今年は、私と一緒に役者メンバーに入って」琴美は、両手を合わせて祈るように頭を下げた。
「ちょっと待ってよ。私がダンス一筋で来てたの、琴美も知ってるでしょ! だって入団も一緒だったし。私は、役者よりもダンスで魅せたいの。それに、私がダンスを抜けたら、誰がリーダーをするの? 宏太だって、去年からダンスメンバー入りして一年しか踊ってないじゃん! それでリーダーが務まるの?」真里は、隣に座る宏太には目を向けずに言った。宏太が首をもたげて、自身の足近くで組んだ両手を見つめているのが分かるから。きっと宏太も、突然リーダーを任されることに驚いているに違いないと、真里は思った。
「二人とも一先ず落ち着こう。琴美、真里には俺から話すから。いい?」琴美は、マサキさんを見て首を縦に振った。
「真里、実は前々からその話は出てたんだ。俺たちOB、OGの間で。真里の表現力は、見ている人の心を魅了する、本当に素晴らしいダンスだし、才能だと思う。だからこそ、俺たちは、真里の可能性をみてみたいんだ。その表現力で役を演じる真里も、きっと観客みんなの心を魅了すると俺は思ってる。初めての役回りを言われて頭の中が混乱してるのは分かる。でも、ちゃんと向き合って考えてみてほしい」マサキさんは、真っ直ぐに真里の目を見て話した。真里はモヤモヤした気持ちのままだったけれど、マサキさんの思いも有り難いとは感じていた。
「分かりました。しばらく考えさせてください。でも……」と言いかけて、真里は言うのをやめた。マサキさんや琴美の表情が一瞬曇ったように見えたからだ。二人は私を何とか説得させようと、やきもきしていたのだろう。その一瞬を垣間見てしまった真里は、何だか自分が我儘を言ってごねているように感じた。意識の中では、自分の主張をきちんと伝えているつもりだったが、雰囲気を察する限り、真里がどうしても悪なのだった。
***
漠然とした未来を描きながら書く進路希望調査表は、真里にとって雲を掴むようなものだ。
教室の校庭側の窓際の席に真里は座っている。担任の先生から配られた進路希望調査表。どちらかに丸を付けてくださいとあった。
第一希望。……「進学・就職」
進学に丸を付けた真里は、「ダンスの専門学校」とだけ書いた。特に下調べもしていないので、全国にダンスの専門学校がどれだけの数あるのか。卒業後は、どんなところに就職するのか。その他にも、調べておかないといけないことがありそうなものだが。紙に書いた文字以外には、何も思い浮かばなかった。続きを見てみると、まだ第二希望、第三希望まである。真里は、進路希望調査表を見て、思った。人生には「進む」か「就く(止まる)」のどちらかしかないのだろうか。これから先も、その遥か先にも。――
真里は暫くの間、調査表の空欄を見つめながら漠然とした未来に可能性を見出そうと努力したが「可能性」という言葉に、ふと、稽古初日にマサキさんから「可能性がみてみたい」と言われたときのことを思い出し嘲笑した。
(「可能性」もまた漠然とした言い回しで、その場凌ぎの常套句だったんじゃないのかな)
そう疑念を抱いてしまうと、もう真里の心は、あのときのマサキさんの言葉をどこまで信じていいのか判らなくなった。
真里は目の前の紙に書かれた文字を見た。「進む」の漢字が書かれた方を乱雑に丸で囲み、その他の空欄はそのままにして提出し席に戻った。窓の外からは蝉の鳴き声がけたたましく鳴いている。担任に声は、鳴き声に掻き消され、何を言っていたのか分からない。真里は青空を一直線に進んでいく飛行機雲を見つめた。
これまでも「迷ったときは突き進むのみ!」でやってきた。これからも、それは変わらない。――青空に消えゆく飛行機雲を、真里はずっと眺めていた。
***
誰かがやらなければならない。それは分かっている。でも、それは自分以外の誰かがやればいい。真里はそう思っていた。まさか、自分に白羽の矢が立つとは露ほどにも思っていなかった。
「琴美、ちょっと待って! 役者をやるとは言ったけど、メインキャストをやるとは言ってない。村人Aとか、ちょい役とか。……他にもあるでしょう。私には、無理だよ。メインの方のクイツをするなんて。……」
真里と琴美は、同じ高校に通っている。琴美は、会計システムコースを選び、将来は公認会計士を目指していると言っていた。「お昼ご飯、一緒に食べよう」と、珍しく琴美に誘われた真里は、大方察しがついていた。子ども劇団では、演目こそ決まっているけれど、公演までの過程は、子ども達に委ねられている。配役も同様に。
真里に配役された「クイツ」とは、主役のオヤケアカハチの妻の役だ。メインキャストは、全部で四人。主役のオヤケアカハチ、幼馴染で敵役の長田大主、その妹たちでマイツとクイツがいる。セリフの多い順に並べると、オヤケアカハチ、長田大主、クイツ、マイツとなる。
クイツをするなら、役者経験の長い琴美が適任だと真里は琴美に伝えた。すると、琴美はまた暢気な声でいう。「真里とクイツは、性格が似てるから真里なら素で演じられると思うよ。いいじゃん、いいじゃん! 最後の公演、私らでメイン張っても! 最後だよ。それに去年、役者が二人も辞めちゃって、正直、人手不足なんだ。だから、真里がクイツをしてくれたら他のキャストは、どうにかできそうなの。お願い。私がもう一つのメインキャストのマイツをするから。……いいでしょう? 」
琴美は中庭のベンチに座る真里の横に座った。
「『いいでしょう?』 って、おやつを一口ちょうだいみたいに簡単に言うけどさ。役者やったことない人にとって、メインを張るのは苦行でしかないんだよ」
真里は横に座る琴美を見た。琴美は近くのコンビニで買ったお弁当を袋から取り出し、蓋を丁寧に開けている最中だった。お弁当をラッピングしているビニールを、継ぎ目のところから剥がし、中に溜まっている水滴がスカートに落ちないようにゆっくり開けている。普段の琴美は、おっとりしていて掴みどころがない。真里には鈍臭く見えている琴美だけれど、練習や演技となると人が変わったようにスイッチが入る。彼女曰く、劇団のみんなにリーダーとして認められるように気を張っていたら、無意識に切り替わっていることが多いらしい。
琴美のレジ袋には、他にもプリンや緑黄色野菜ジュースが入っている。真里は、手に辛子明太子の入ったおにぎりを持って、自分の隣にカップサラダを置いた。レジ袋には、他にもサラダチキンスティックが入っている。でも最後のものは、お昼に食べるものではなく、放課後に通っているダンススクールのときに食べる用だ。
劇団の稽古は、土曜と日曜日にある。真理は、火曜と木曜をダンススクールに通っている。そのダンススクールは、二年前に東京から来た女性の指導者が開いたスクールで、石垣島に来る前までは、多くのステージでバックダンサーをしていたらしい。真理が漠然とした未来に「バックダンサー」と考えていたのは、実はその指導者の影響もある。彼女は、数多くのステージをこなしてきたという。実際は知る由もないが、そういう夢を叶えてきた人の眼差しや言葉は、例にもれず真理の心に響いた。
「真里は、凄いな。土日以外にもダンススクールとか行って、毎日やりたいことに没頭している感じでしょ? おまけに、すらっとした体型も維持できてて。……私なんか、お腹空くとついつい食べちゃうし、頭使うと無性に甘いもの食べたくなる。だから、公演前は一番しんどいの。だって、甘いものも断って、ご飯も野菜中心にするから。でないと、太ったままお客さんたちの前に立つことになるでしょう? そんなの想像しただけでも耐えられない」琴美は、タコライスを大きな口を開けて美味しそうに食べ、真里に顔を向けた。その顔は木の実をほっぺに溜め込んでいるリスみたいだった。真里は、そういう飾らないところが琴美の良いところだと思っている。無理して気を張らなくても、自然体の琴美でも十分みんなから信頼されるリーダーになれると思うのに。……と、真里は小動物を愛でる眼差しで琴美を見た。
「そんな大したことじゃないよ。私はただ少食なだけ。本当は、おにぎり一個でもお腹いっぱいなくらい。だけどね、……ほら、ウチ、親が定食屋してるでしょ。だから、お母さんがね、『体は食べたもので作られるのよ。だから、口にするものは自分を生かすものだと思って食べなさい!』だって。あとね、こうも言ってた。『心は聞いた言葉で作られる。未来は話した言葉で創られるのよ』とか。何だか」
真里の両親は、家を改築して夫婦で定食屋を営んでいる。真里が中学生に上がったころからだから、今年で確か六年目になる。コロナウイルスが蔓延していた頃は、さすがに暖簾を降ろそうかと考えていたらしいが、ネットで島の食材を使ったプリンやレトルトパック商品が顧客に受け容れられ、なんとか暖簾を降ろさずに済んだ。コロナウイルスが第五類に格下げになってからは、ネット通販で常連になったお客さんや以前から足を運んでくれていたお客さんたちが戻ってきて、連日大繁盛している。店では、朝食と昼食に島の食材で創作した定食を提供している。
定食屋を始めるきっかけになったのは、実は真里があまり量を食べないことだった。両親は真里に、少量でもせめて口にするものは良質なものを。……と、あれこれ試行していたら栄養士や食材ソムリエの資格を取得するようになった。それで、せっかくだからと知識を生かして定食屋を開くことになったのだと、近所の人に話しているのを真里は聞いたことがある。
「お母さんって、何かの先生?」リスのような琴美の大きな目とほっぺが真里を見つめた。
「え⁈ 何で」
「だって、めっちゃ名言じゃん! 鳥肌立ったよ、いまの言葉」
「ははは、きっと何かの本の受け売りだよ。お母さん、いつも本ばかり読んでるから。あと、思い立ったが吉日! って人だから、いつもこう」真里は両手を顔の両側に出して、前に伸ばしてみせた。
「真里の性格は、お母さんに似たんだね」琴美がプリンの蓋のビニールを慎重に外している。まるで、手にできた豆の皮を痛々しく剝いでいるかのような表情をして。以前にもそうやってプリンの蓋を開けていたことを真理はふと思い出した。確か「絶対音感」がどうちゃらなんちゃらだったと思う。琴美が蓋を開け終わるのを待って、真理は話を続けた。
「私は、どちらかと言うとお父さんに似てると思うな。自由奔放なお母さんを、心配しながら見守っている。……的な」
「へえ、意外。真里のお母さんって、なんて言うのかな? 穏やかに日々を過ごしてます。……みたいな雰囲気なんだよね」
「もう、全然!」真理は、かぶりを振った。
「お母さんね、『人生一度きりなんだから、生きてるうちに、やりたいこと全部したい!』って、いつも言ってる。本当に自由奔放って感じなの」琴美は、興味津々に目を見開い真理を見つめている。真理は、何だかじっと見つめられることに居心地悪さを感じて、つい言わなくてもいいことを琴美に話してしまった。「実は今度ね、アメリカに住んでいるっていうお母さんの大学時代の友達が、この島でLIVE BARを始めるらしいの。三年前にもこの島に来てたみたいだけど、私は会ってないから、どんな人なのか分からないんだけどね。お父さんが言うには、世界的に有名なダンサーだったんだって」
「え! それってビックチャンスじゃん! 真理にとってさ。大物からの推薦で芸能界なんて入れるんじゃない?」
「……」
「ご、ごめん。なんか気に障ること言っちゃったかな。……私」
「ん~。私にも分かんない。分かんないけど、いま琴美に言われて何か胸の中がモヤモヤしてきた。私、自分が目指しているものが何なのか、分かんないの。琴美みたいに、公認会計士になりたい。とか。凄いと思う。けど、私はダンス以外にやりたいことがないし、だからってダンスで食べていける自信なんてないし。かと言って、さっき琴美が言ったみたいに、誰かの助けを借りて芸能界に入るとかも、ちょっと違う気がする。私、何がしたいんだろう」項垂れる真理の背中を琴美の左手が何度も撫でる。猫の背中毛を撫でているかのように。
「そんな落ち込むことじゃないよ。『真理はダンスが好き』それだけでも立派な夢や目標じゃない? 夢って、何も未来だけのことを意味しているわけじゃなくて、今の自分を肯定するものだと思う。真理が今ダンスを一生懸命するのも、立派な夢の一部だと私は思うよ。迷っているときこそ、今の自分をしっかり肯定してあげなきゃ!」
真理は、琴美の瞳を覗き込むように、まじまじと顔を見た。
「何、私の顔に何か付いてる?」
「いや、そうじゃなくて。今私の隣に座ってるのは本当に琴美なのかなって、思って」
「ひどい。私だって、将来とか未来とか。こう見えても結構悩んでるんです!」琴美は、ほっぺを膨らませて真理に怒った顔を見せた。
「ごめん、ごめん。琴美が同じ高校にいてくれて、私は心強いなと思ってさ。ありがとう」真理は、琴美のほっぺを両手で押さえて、唇を尖がらせてた。
「やめてよ」と暢気な声が尖った唇から漏れ出てくる。真理はそれを見て、心が温まるのを感じた。二人は互いに笑い合って噴き出した。
新緑の香りを運ぶ風が、蒼く爽やかに二人の間を駆け抜けていった。
***
その日の朝は、ベトベトした潮風にジメジメとした湿気が混じり、肌にしつこく纏わりついていて、空気が昨日よりも重く感じられた。
石垣島では、平年だと5月の連休前後に梅雨が訪れる。梅雨のことを沖縄の方言で「スーマンボースー」と言い、これは梅雨の期間に二十四節気の「小満」と「芒種」が過ぎることから、そう呼ばれている。
この時期は、立っているだけで全身の汗腺から汗が吹き出てくる。
真里は日課のダンスを白保海岸の砂浜で一時間し終えたところだった。全身が、まるで海で泳いで来たかのように濡れていた。真里は練習終わりにいつものように、流木に座ろうと視線を向けると、そこには、足を組んで座っている人がいた。真里の方を睨みつけるように見ている。
「やばい!」と真里は瞬間的に思った。がっちりとした体型を見るからに、明らかに男性だ。こんな蒸し暑いのに焦茶の革ジャンを付けている。見かけない人影から、恐らくは観光客か何か。しかし、この近くにホテルなどない。両親が営む定食屋は八時半からの営業だ。観光客が朝の六時頃から何もないこの砂浜に来ることは、これまでに一度も無かった。真里は流木近くに水筒を置いていたが、取るのを諦めて反対の方角に足を早めて歩いた。背後から声は聞こえてこないが、刺すような視線が背中にひしひしと感じる。早くこの場を去ろう。真里は全速力で駆け出した。
家に着くと、思いっきり玄関のドアを開け急いで閉めて鍵をかけた。真里の呼吸は荒く、気持ちを落ち着けようと深呼吸を試みたが、途中で咽せて咳が出た。逃げているときに感じた背後の視線を思い出し、真里の全身に鳥肌が立った。――怖かった。まじまじと見たわけではないが、あの人の放つオーラみたいなものが尋常じゃない感じがした。しばらくは砂浜での練習を止めて、家の庭で練習することにしようと真里は思った。両親は、店で朝の仕込みをしている。
少し落ち着きを取り戻した真里の鼻腔を温かな味噌汁の香りがくすぐった。今朝の味噌汁は、イナムドゥチだな。それは真里の大好物だった。
イナムドゥチは、琉球王朝時代には高級料理の一つだった。「イナ=いのしし」と「ムドゥチ=もどき」が名前の由来で、かつては、猪肉で調理されていたようだ。しかし、その肉が手に入りにくくなり、代用として豚肉を使うようになった。
イナムドゥチは、白味噌のとろみのある甘ったるさと豚肉の柔らかさが絶品だ。島で採れた人参や大根は、口の中で一口噛めば後はとろけていくように絶妙な煮加減で調理されている。疲れた体を優しく包み込んでくれるその味は、まさに我が家の味であり、「食によって今私は生かされている」と、実感できる瞬間をもたらしてくれる逸品だ。
真里は、玄関で島ぞうりを脱ぎ捨て風呂場でシャワーを浴び、仕込み中の店内へと駆けていった。真里は、先ほどから溢れ出る唾液を抑えるのに必死だったのだ。
「もう、何? 子どもみたいに慌てちゃって。年頃の娘とは思えないわね」母の千夏が微笑みを含んだ声で言った。
「だって、大好物の匂いが部屋中に漂ってるんだよ。我慢できないじゃん」真里は、一掬いして湯気に何度か息を吹きかけた。そして、イナムドゥチを口の中へ運んだ。じっくりと時間をかけ、口の中で溶けてゆくのを待つ。唾液と混ざり合い気管を抜けて、胃の入り口辺りに熱を感じる。この瞬間、私は生きている。――そう感じる。真里が食べる様子を、父の史は厨房からこっそり覗いて笑みを浮かべた。
真里はイナムドゥチをゆっくりと味わいながら、食事を終え厨房を見た。両親は、いつものように開店前の準備をしている。真里は構わずに厨房に声をかけた。
「ねえ、今日海岸で変な男の人を見かけたの。流木の椅子に座って、私を睨むように見てた。私怖くて、逃げてきたんだから」真里は、あの時の恐怖が再び思い出され鳥肌が立った。
「しばらくは、あそこで練習するのを控えた方がいい」と史が不安な表情をみせる。千夏は、開店準備が一段落したからと、すぐさま海岸の方へ駆け出して行った。史が、「おい」と千夏の背中に声を掛けたが、既に出口を曲がって姿は見えなかった。
しばらくすると、千夏が真里の水筒を持って困った顔をして戻ってきた。
「どうした?」千夏の腑に落ちない表情に、史が聞いた。千夏は、首を傾げて史にスマートフォンの画面を見せた。
「何、どうかしたの?」真里が二人を見る。二人は顔を見合わせて、互いに困った表情を見せながら真里にスマートフォンの画面を真里には向けた。
(へ、タ、ク、ソ)
画面に映っていたのは、流木の前の砂浜に書かれた四文字の言葉。
「『ヘ、タ、ク、ソ』……は? 何なの。最低!」
真里は、瞬間的に怒りが込み上がってきて、喉の渇きを覚えた。テーブルの水差しを無造作に手に取り、コップいっぱいに水を注ぎ、それを一気に飲み干した。
「今度会ったら、宣戦布告してやる!」口元に残った水を片手で拭いながら、真里はスマートフォンの画面に書かれた四文字を睨んでいた。
今朝の最悪なスタートがまだ頭の中に残っている。真里は、劇団の稽古場に来ていた。
稽古場といっても、場所は市街地から少し離れたところにあり、「石垣自然の家」という教育センター施設の体育館を稽古場にしている。だから、教育センターのイベントがある時は、どこかの学校の体育館で空きがあれば使わせてもらっている。どこも空きのない場合は、芝生広場などの野外施設で稽古することもある。
石垣島子ども劇団は、発足から二十年余り活動を維持している。
発足初年度から何年かは、石垣市の健全な青少年育成事業として、市を挙げての一大プロジェクトの一つに数えられていた。その分、団員も毎年百名近くいたと聞く。いまでは、プロジェクトも下火になり、事業運営は保護者主体で行っていて、指導者は社会人となり島に戻ってきたOB、OGの元団員たち。現在の団員数は、五十名を切っている。だから、団員の確保が毎年の課題となっている。
真里は、琴美に今朝のことを伝えたくて声を掛けようとしたが、既にスイッチが入っている様子を見ると、今は止めておこうと思い止まった。稽古終わりにでも、ゆっくり話が出来ればいい。真里はフロアに座り稽古前の柔軟体操を始めた。稽古開始15分前にも関わらず、人は疎らだ。……公演まではまだ日が遠い。……だけど、公演日が近づいても今と変わらないことを真里は知っている。
ダンスリーダーをしていた去年。公演前最後の練習を30分遅刻してきた二人の役者メンバーに、真里は怒りを露わに言った。
「ふざけないで、何時だと思ってるの! 本番は明日だよ、分かってる? もっと気持ちを引き締めて! みんなに迷惑かけてるんだからね!」
真里の言葉に、遅れて来た二人は泣いてしまった。真里はそれにもイラッと来て、「泣くぐらいなら、時間通りに来なさい!」と、さらに怒った。泣いている二人に気付いた琴美が、二人の元へ駆け寄り肩を抱いて発声練習中の役者チームの方へ連れて行った。琴美は真里の方を振り返り「ごめんね」と、口を動かして謝った。
真里のあの一件が原因かどうかは分からないが、公演終了後、あの二人は劇団を辞めた。始めから辞めるつもりだったのではないかと真里は感じていたが、そうではないと思っているメンバーもいることを真里は琴美から聞いてる。
琴美は優しい、本当に。メンバー一人一人に声を掛けている琴美を真里は体操しながら見ていた。
「真里がこれ以上、メンバーから印象を悪く持たれないように、自分が全体の指揮を執るから、真里は私のサポート役として側にいてほしい」
年度初めに真里は琴美に言われた。そのとき、異なる二つの感情を真里は感じた。一つは、「負けてなるものか」という思い。私は悪いことを言ったつもりはない。だから、周りから何を言われようと謝ったりはしない。もう一つは、「よかった」という安堵の思いだった。正直、私が全体のリーダーになることで揉め事が増えるかもしれないと考えなかったといえば嘘になる。
琴美が全体のリーダーになると言ったとき、重くのしかかっていたものが取り除かれた思いがした。認めたくはなかったが、私も人並みに人目を気にする性格なのだと真里は思い知らされた。それと同時に、琴美の芯の強さをまざまざと見せつけられた。
真里は、自分の前に置いたスマートフォンの画面にタッチした。画面の時計は九時五分と表示されている。視線を室内全体に向けると、真里を合わせて五人ほどいる。スマートフォンの画面で「参加◯」の数を数えると三十個あった。今日もまた、稽古開始時間を三十分遅らせるしかなさそうだ。
室内のジメジメした空気がやけに苦しく感じるのは、私だけだろうか。と、真里は思う。……公演まではまだ日が遠い。……真里は心の中で、今日何度目かの同じ言葉を独りごちる。体は既に温まっている。