神々が集まる、雲出ずる国
今年も間もなく神在祭を迎える。
毎年全国から八百万の神々が出雲大社に集まられる10月。
神様がお出かけになる他の地では神無月と呼ばれているが、お迎えする側の島根だけは、特別に神在月と呼んでいる。
これに合わせて10月になると島根を訪れる観光客の数も急に増えるのだが、正確には旧暦の10月10日から17日までの1週間なので、神在祭の日程は毎年変わっている。
それは10月半ばから、年によっては12月の初めになることもあり、私はいつも年の初めにはまずその年の神迎祭の日程を調べ、新しいスケジュール帳へ一番に書き込むことを決まりとしている。
神在祭は、旧暦10月10日の夜7時、出雲大社より西に1km程の稲佐の浜で、八百万の神々を迎えする御神事から始まる。
稲佐の浜での御神事に一度でも参列したことのある方なら、その雰囲気が特別なことをご存じだろう。
暗い浜辺に立ち、波の音と祝詞を聞きながら海を見つめていると、遠くから本当に何かが押し寄せて来るような気がしてくる。
こういう時は不思議なもので、風が冷たいほど自分の身が清められるようで心地よい。
また次の年にも来たいと、大社のすぐ近くの旅館には、翌年の神迎えの日に予約を入れて帰る人も少なくない。
龍蛇神様に先導されて出雲大社に入られた神々は、1週間そこに滞在され、様々な縁組みなどの会議『神議り(かむはかり)』を行われる。
男女の恋愛や結婚の縁だけではない。
全ての人と人の関わりや、作物の収穫なども取り決められるそうだ。
私は必ず、神在祭期間中の早朝に一度は参拝することにしている。
人々が集まる前の澄んだ空気の境内は、何物にも代えがたい。
いつもは閉じられている東西の十九社の扉も、神在祭期間中だけは開かれており、その前を通る時は不謹慎にもにやけてしまう。
たくさんの神様に見つめられ、自分が品定めをされているようで何だかくすぐったいのだ。
神様達のお眼鏡に適う自分になれているのだろうか……
1年間の自分を振り返る瞬間でもある。
何かをお願いするわけではない。
お願いしたからといって、自分に相応しくないものであれば与えられない。
全ては神々の思し召し。
そう言い聞かせ、与えられたものを素直に喜べる自分になりたいと思いながら、静かに境内を歩く。
大きな声で話しながら歩いているのは観光客だけだ。
神在祭の間は、地元では大きな音や声を出して騒いだり、新しいことをしたりしてはいけないことになっている。
神々のお話し合いの邪魔にならないように、人間はとにかく静かに過ごさなければならず、地元の人は神在祭の期間を『お忌みさん』と呼んでいる。
実際にこの時期には『お忌みさん荒れ』と言われるように、風が強く、海が荒れることが多いというのだから、本当に人間の動きを止めてしまうほどの大きな力が働いているのだろう。
この土地では全てが神様中心に動いている。
神々が集まられて行われる神議りが神在祭ように思われているが、その本来の目的は、イザナミノミコトのためだという。
亡くなった母親のために、年に一度、全国に散らばっている子供達が集まる法事のようなものだったのだ。
しかも出雲大社の他にも、七つの神社でそれぞれの神在祭が行われている。
実際には1週間ではなく、1ヶ月にわたる八百万の神々の里帰り。
島根の秋は、神々が集まるピンと張り詰めた神聖なる空間であると同時に、何とも温かみのある穏やかな時間でもあるのだ。
今では私も島根でお迎えする側になっているが、元々は九州からのIターンである。
中国山地の向こう側の、雲が多い土地。
そのどこか隠されたような空間は、20歳の頃から何度も訪れた大好きな場所だった。
知人も親戚もいないこの土地に、「神様がいるから……」と遷宮の年に移住した。
土地勘は少々ある気でいたが、やはり住んでみるとそこには違った世界観があった。
神々の集まる神聖なる土地には、独特のエネルギーでその空間を守り続けるために、見えない境界線が引かれているようである。
中国地方を陰と陽の2つに分ける中国山地は、本当の壁のように立ちはだかり、あらゆるものが出入りすることを選別しているように厳しい。
九州から車を走らせ、難なく越えられていた中国山地が、何故か同じ距離が果てしなく遠く感じるようになり、やがてそれを越えることが億劫になってしまった時、自分は『内側にいる』ということを実感した。
神々の集まる特別な空間。
これは同時に、その土地に住む人々の、忍耐強い生き方があってこそ保たれているものだと教えられた。
それは時には保守的で、新しいものを激しく拒み、息苦しくなることもある。
絶対的に大きな存在があるから、人々は仲間意識が強く、静かに深い所で繋がっている。
『雲出ずる国』の神々は、雲の向こうでその姿は隠されている。
それでもその存在を強く感じる瞬間がある。
コロナ禍で一般参拝は叶わないが、きっと神々は今年もこの地に集まってくださるだろう。
私達がよりよく生きていけるような、神議りを行うために。