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「このドラマはフィクションです」をちゃんと示した上で、更に主人公にはリスペクトがいるのではと考えた話。

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 「オスマン帝国外伝」「鎌倉殿の十三人」「光る君へ」の一部ネタバレします。また、今回の記事はあくまで個人の意見です。ご了承ください。

きっかけは、あの話。

 今ネット上で話題になっている「弥助」問題です。これに関しては、個人的に歴史に詳しいわけでもゲームに詳しいわけでも奴隷問題に詳しいわけでもありませんので、特に意見を述べるつもりはありません。ただ、これがなぜ問題になっているのかに興味があって、いくつか歴史系Youtuberさんの動画を見ました。その方達も、ご自分の意見を述べる前に、どういう経緯で炎上しているのかをまず整理してくださっていたので、助かりました。
 その中で、何人かの方が「(実際の問題となった書籍は「学術論文がはみ出したようなもの」とされたが)小説として出せば良かったのに」と言われたとき、タイトルにも入れました「このドラマはフィクションです」が頭をよぎりました。そして、ここ最近モヤモヤしていたものに対して、一つの意見を抱くことになったのです。
(弥助の話はここでおしまいにしたいと思います)

「このドラマはフィクションです。云々……」

 昔、二時間ドラマのラストで何秒か表示されたこの文言、見覚えのある方は大人……ってこともないかもしれませんが(笑)。昔はよく見た気がします。「そりゃドラマなんだからフィクションでしょ。何を無粋なことを。」と言われる方もいらっしゃるかもしれません。けれど、最近だけでなく、NHKの大河ドラマや朝ドラは、これを昔からほどんどのドラマで表示していません。少なくとも、私は見たことない。最近は民放のドラマでも見かけません。昔はあちこちで見た気がするのですが。
 今こそ、全てのドラマ関係者に対して言いたい、ではないですが、今こそこの表示がちゃんと必要なのではないかと思うのです。
 ちなみに、ひと昔前のドラマになりますが、トルコの歴史ドラマ「オスマン帝国外伝」は、毎話冒頭に「歴史の出来事をもとにしたフィクションです」と表示しています。だから、ヒュッレムが途中で行方不明になるなんて、女優さんがらみ事情のトンデモ展開もゆるされたんだと思います。

なぜ、これが必要だと思うのか。

 一旦冷静になるため、です。特に歴史ドラマは、過剰なくらいこれが必要だと思います。もし、これをしないのであれば、少なくとも「諸説」のなかの「これ」をもとに作りました、というエクスキューズが必要。それも特に原作がないドラマ(脚本家がストーリーを作る)場合、歴史監修担当者名以外に、底本にした歴史資料をHPでも提示したらいいのではと思います。
 「史実と違う」ということを全て殊更に指摘しまくるつもりはありません。しかしドラマである以上、歴史をもとにしていたり現実の仕事や家庭をモデルにしていたりすることもあると思います。ですが、それを「フィクションです」と言い切らないで流してしまう場合、作り方によって誰かを傷つけることさえあるのでは、と思いました。それに、やはり作った部分も全て史実であるかのように見る子どもさんもいるのではないでしょうか。少なくとも、史実を全てその通りやってもらいたい(これはちょっと無理なのだけれど)人にとっては、一度冷静になるべき部分でしょうから、ちゃんとどこかでこれを見せるべきなのです。
 まして、今のところ「史実」とされている重大な事実を変える時には、これが必要ですね。
 私が歴史ドラマの楽しみにしている点として「歴史上の謎」や「なぜこうなった」というところ、出来事と出来事の間にある流れを埋める誰かの思いや「実は……」をどう描いてくれるか、があります。それに繋がらないものはわざわざ描く必要あります?とさえ思います。まぁ、お遊び程度ならいいのですが。
 最近では「鎌倉殿の十三人」の義時は良い例かと思います。一見、政治的に闇堕ちして見えますが、和田殿を討った時に誰にも見せず涙ぐんだり、政子の演説の前に自分の命を差し出そうとしたり(その思いが政子の演説に繋がる)、そのほかにも色々間を埋める「思い」の見せ方が秀逸でした。それに、このドラマは三谷さんの歴史好きもあってそれほど不快な改変はない気がします、個人的に。

それでも、「あれ」はだめよ。

 いくらエクスキューズがあったとしても、歴史ドラマは改変に程度があると思います。特に、主人公。「光る君へ」での「賢子は道長の子」展開は一線を超えてしまっている気がします。
 主人公を歴史改変するのなら、いい人にしないと。(え?)
 つまり、心情的に、視聴者のヘイトを買いそうな事は避けるべきだと思うのです。だから、まひろのゲス不倫はなしだけれど、クリーン道長は個人的にアリなのです。まぁ政治的に闇堕ちする方が、基、もっと道長主導で史実をなぞってくれる方が楽しいですが。
 ちなみに「賢子は従三位まで上っているから、本当に道長の子かもしれない」おっしゃる方が散見されますが、親王の乳母として務めて、その親王が天皇になったので、従三位をもらった一人(平安期そういう女性が沢山いたらしい)ですので、道長との血縁を証明するものではないと思います。
 詳しくはこれまでのレビューと前半振り返り裏所感をご覧ください。
 「フィクション」エクスキューズがないばかりか、この主人公貶め改変によってか、大河の視聴をドロップアウトされる方も見られます。また、最近私も欠かさず見ていた某歴史系YouTuberさんが、大河のドラマに沿った毎話解説をやめられました。そして理由の一つに「脚本が合わなかった」というものを挙げていらっしゃいます。他にも色々とあげていらっしゃいましたが、私にはこの理由以外は対処可能のように思えました。でも、脚本が合わないはどうしようもないし、辛い。今や大河ドラマの歴史解説は、視聴者がそれを込みで楽しんでいると言っても良いのに、その一つが消えるというのは、脚本における大胆歴史改変への罪の大きさを表しているように思えてなりません。

時代

 何より、そういう時代になったのは確かだと思います。ドラマは、少々無粋でも「このドラマはフィクションです」とエクスキューズする、フィクションだとエクスキューズしてもなお、やはり主役には気配りがいる。これは極端なものを書く人と作る人、極端なものの見方をする人がいて、極端なことがネット上で広がりがちな時代に必要なことではないでしょうか。
 インターネットができてから、むしろこれに逆行するように「このドラマはフィクションです」が消えたのはなぜなのか、とも思います。昔の方が、テレビの中のことを、ある意味ファンタジーとして見ていたはずなのに。もっと大昔ではシェイクスピアの「夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream)」も、そんな締め方しています。妖精だの魔術だのが出てくる、誰がどう見てもフィクションのファンタジー。それでも、シェイクスピアは「お気に召さなければ、どうぞ夢と思し召しください」と言わせています。実はこれに関しては、ちょっと思うところがあるのですが、それはまたの機会に。

実践

 ということで、このnoteにあげている掌編小説には「この小説はフィクションです」を付けてみています。加えて、レビューやこんなエッセイには「個人の感想です」タグも付けています。自分の書くものが、世の中全ての意見ではないと思ってはいるからです。自分の描く世界が、全ての人と共通する見方ではないことも分かってはいるからです。これ、コンクールとか公募されているかたはどうしているのでしょうか。個人的には、書籍として発売されたり、作品として雑誌などに掲載されたりする時に追記すれば良いかなと思うのですが。まぁ、そんな素敵な立場になってから考えよう。

ということで、あくまで「個人の見解です」が、最近思った「このドラマはフィクションです」について、でした。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

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