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救われたその日が、記念日

最近、本屋に行っても心がときめかなくなった。
大学時代は、本屋に一日居れると思うくらい本が大好きだった。あの本もこの本も欲しいけど、お金が無いからこの本を読み終わったらあの本をお迎えに行こう。って、そうやって1冊だけ大切に買う。その時間が大好きだった。
仕事を始めた。人に本を読むことを勧められるようになった。人から色んな本を勧めてもらうようになった。勧めてもらわなくても、この本を読んだ方がいいんだろうな。と思うことが増えた。
そんな日々が増えるうちに、気づいたら本屋に入っても何もときめかなくなった。
きっと、自分が好きそうな本を見つけても、この本を読むくらいなら仕事に関連してる本を読まなきゃいけないのではないか。と感じるようになったからだと思う。
ただ、今日は久しぶりに一日中夢中になって時間を忘れて読み進めてしまう本に出会った。久しぶりに、この本読みたい!と純粋に衝動で買ってしまう本に出会った。

ファンになる。きみへの愛に リボンをつける

この本は、最果タヒさんが宝塚のファンとして生きている上で感じてきたことを書き記したエッセイだ。

友達のインスタのストーリーに載っていた。即購入、即読み始めた。家に帰る時間が惜しかったので、近くのカフェで2時間。没頭した。仕事以外で携帯をこんなに長い時間触らなかったのはいつぶりだろう。
そこから家に帰り、また読み進めた。購入から4時間程度で読み終えた。久しぶりに一気に読んだ。一気に読むにはもったいないほど、高カロリーで濃密な作品(私はそういう作品が大好き)だったけど、それでも一気に読み進められた。

多分それは、私が小学校低学年から今の年齢まで途切れることなく誰かの“ファン”として生きてきて、上手く消化できていなかった感情たちを整理整頓させてくれたからだと思う(著者の方がこれをどう受け取るかは別として、私としては有難かった)。高カロリーなのに、頭はかなり澄み切っている。不思議な感覚だ。
誰かの“ファン”として生きたことがある人なら、きっとなにかは刺さるのではないかと感じるほど。

まず、はじめに が刺さるのだ。
でも、本好きだった私は、はじめに は私が一番最初にこの目で出会いたいみたいな変なやつなので、ここでは書かない。この駄文を読んでくれて少しでも気になったあなたの目で、はじめに 確かめてほしい。出だしから共感でしかないので。

その中でも、特にをあげるとしたら

全ての出会いが最良のタイミング

これだ。そもそも、もう題名がもうそう。

ここで少し、私の今の推し活の話をさせて欲しい。嵐が活動休止してから、私は某事務所(本当はこんな表現せずに大声でジャニーズと言いたい)には推しを作らないと決め、あらゆる誘惑を断ち切ってきた。色んな人から勧められるものに蓋をしてきた。嫌いと言うよりは見ないようにしてきた。

それが昨年打ち破られることになる。
職場の先輩にWEST.をおすすめされたのだ。その先輩は、私が重度の嵐拗らせオタクだということを理解していたからか、無理に進めることはなかったものの、WEST.に新しい動きがあれば何かにつけてコソッと「WESTube、新作上がってます。」「この曲、いいです。」とナチュラルに進めてくれた。
それでも頑なな嵐拗らせオタクは、茶の間程度にWEST.のことを認識していた。
そんな私は去年、今までの人生最大の大鬱期に突入した。ここでその話をするのは本筋から逸れるのでしないが、そんな時に、私を救ったのがWEST.の“僕らの理由”という楽曲だった。本当に“救われた”。

2:40の神山智洋さんに、本当に救われました(ボソッ)

その当時の私の心情や背景があるから、WEST.との本当の出会い(僕らの理由)は、私にとって最良のタイミングだった。

ただ、私が本気で好きになってからこの先輩と話している時にふと、先輩が「もっと早く好きになってればよかったと思うんだよね」と言ってきた。それに対して私は、「私はアホなオタクなんで、いつだって自分が出会ったタイミングが正解のタイミングなんだなって思うんですよね。」と返した。

まさに、その話をしたのだ。

私自身、なかなか同じ感覚の人は少ないのかもしれないと思う。なぜなら某事務所(ジャニーズ)界隈では結構新規と古参が意識されがちであると感じることが多いからだ。古参の方のツイートを見て、そんな時代があったんだ。とか、昔にリリースされた曲を聴いてこの曲大好き🎶になったりとか、エピソードを自分で調べて、この歴史があっての今だなんて…今を大切にしよう……とか、そうなる度に「この時に知ってた人はいいな」にならないことは無い。ただ私は昔を知る度に、「またひとつ勉強できたな५✍」の感覚がいちばん大きかった。

思えば、嵐に出会ったタイミングも、救いのようなタイミングだった気がする。小学校2年生のとき、忘れられない個人的な事件が起きるのだが、その時も嵐の曲を聴いていたし、幼少期眠れない夜に、ガラケーに取り込んだ嵐の音楽を流していたから、今でも私は嵐の曲を聞くと眠くなる。五里霧中みたいなゴリゴリのラップ曲でもだ(これホント不思議)。
救われたという記憶は、私の中では消えず、今も嵐を待っている。

だからこそ、最果タヒさんのこの文章をよんで、私に共感者ができたようでスキップして小躍りしたくなるくらい嬉しかった。

きっとこの役だったからとか、この作品だったからとかだけでなく、あの日の私だったから、というのもとても大きいはずだ。

ファンになる。きみへの愛に リボンをつける/最果タヒ

多分あれくらいの鬱状況でなければ、私の心にあの曲が沁みることももしかしたらなかったかもしれない。毎日この曲を聴きながら泣いて帰るくらいの精神状態じゃないと、救われていなかったかもしれない。あの日々のことはもう思い出したくないけれど、唯一良かったのは新しい好きに出会えたこと。本気でそう思っているその気持ちが、勝手に肯定された気がした。

「好き!!」と心が叫んだなら、疑いようがないほどにその時が最良だったんだと私は思う。もっと早くに出会っていたらこうはならない、遅くてもこうはならない。絶対に今の私にしか生まれない感情として「好き」がある。今ではなく違うタイミングに出会いたかったとは思わなくて、タイムマシンがあれば今から過去に遡りたいなぁと思うだけ。

ファンになる。きみへの愛に リボンをつける/最果タヒ

この本に出逢えたから、またさらに私は私が出逢えたタイミングを愛することができるし、それは私1人だけじゃないのかもしれないと思うこともできる。最果タヒさんからしたら勝手に共感されて不本意かもしれないけど、私はスキップできるくらい嬉しいということを伝えたかった。

ほかにも、ファンレターがほんっとに書けない私にとって刺さる内容があったりとか、双眼鏡というものになかなか好意的になれなかったのに、最近初めて双眼鏡を使って舞台を見るようになって景色が変わった私にとって刺さる内容があったりとか、もうなんか、全部スキップして伝えたくなるくらい、刺さりまくった。

私が今まで感じてきて、1人でそっとしまったことは、もしかしたら誰かも感じているのかもしれない。それを無理に共有しようとは思わないけど、同じ人が好き。それだけで寄り添いあって生きていけるファンとしての生き方は、孤独であって孤独でなくて、時に苦しくて時に楽しい。そういうものなんだよな。と再認識できたことが、とても嬉しい。

今日も明日も、祈りに近い好きがあなたの元に真っ直ぐに届きますように。

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