忘れられない早春の朝
フィギュアスケーターで誰のファン?ときかれれば私は即座に『チェコのミハル・ブレジナ!』と答える。どこが好き?ときかれても全部だ。好きとはそういうものだろう。アメリカのネイサン・チェンも好きだ。だがフィギュアスケートは長らくぼおっと観てきた。
私がツイッターでスケートアカウントを作ったのはほぼ1年前。今シーズンまでBSは観られない、ライブストリーミング中継、通称ライストも観たことがない。観れるのは地上波のテレビ放送だけというひどい情弱ぶりだった。
そんな環境も手伝ってか、私は日本選手は箱推しだった。日本人は全員を応援していたのだ。日本は近年稀にみるフィギュア大国なので、誰かが負けても誰かが勝つ、もしくは台乗りするので試合後の私は結構さっぱりしていた。
だが最近はジュニア選手の鍵山優真から目が離せないでいる。若干16歳の若武者だ。世界ジュニアに先立って開催されたユースオリンピックもライスト観戦したが、彼がユースオリンピックでは優勝している。
鍵山優真の魅力は美しいスケーティング、振り付けを遂行する技術力、踊り心、攻めるジャンプ構成、物おじしない精神力などが挙げられる。だが端的ににいってしまえば『可愛い』の一言につきる。
鍵山優真の魅力を可愛いの一言ですませようとするポンコツフィギュアファンの世界ジュニア選手権男子フリーのいまさらの備忘録。
女子ショートを観終わった時点で時計の針は、深夜12半前。夫はもう寝てしまった。私は一旦寝てしまうと起きれないタイプなので朝までの徹夜体制で世界ジュニアを観る。スポーツ観戦は元々好きなので可能なものはライブで観たいという信念もあった。深夜1時15分から始まる男子フリーに備えてたこ焼きを10個レンジでチンした。BSフジの『フィギュアスケートTV』を観ながら食す。この時間にフィギュアの番組を流せるのなら男子ショートを編集でもいいから流せばいいのにと思いながら食べた。眠い・・・。眠いがこれから私の長い長い戦いがが始まる。テーブルにはライストを観るPCを置き、ツイッター用のスマホを握りしめた。
鍵山優真はショートを1位発進していた。世界ジュニア王者にはなれるだろうという不思議な自信が私にはあった。彼はシニアの全日本選手権に全日本ジュニア王者枠で出場し、宇野昌磨、羽生結弦に続いて銅メダルを獲得している。ユースオリンピック覇者であるし、シニアの四大陸選手権にも出場し、銅メダルを獲得していた。だから現在の世界王者ネイサンのように余裕で勝ってしまうだろうと思っていた。だがそれは私がロシアのジュニア選手の情報を、さっぱり持っていないだけだったかもしれない。
第1グループは眠気と戦っていたが、第2グループにカナダのステファン・ゴゴレフが登場すると目が覚めた。お気に入りの選手だからだ。きれいなブロンドヘアに黒地に赤と白の挿し色が入った新衣装。ピーター・ガブリエルのロックな世界を表現していく。途中までいい感じだったのだがルッツがダブルに抜けたときから様子がおかしい。後でわかったことだがスケート靴が壊れたらしい。ツイッターには『ゴゴレフくん泣かないで』の文字が並んだ。ゴゴレフはキスクラで悔し涙を流していた。来季も応援するからね、今は泣いたらいいよ、私はそんな風に思っていたしそんな風にツイートした。
第2グループはの他の選手ではマヨロフの演技が心に残った。引退したスウェーデンのアレクサンデル・マヨロフの弟ニコライ・マヨロフ。通称ニコマヨのスウェーデンらしからぬお洒落で格好いいプロを楽しんだ。韓国のイ・シヒョンの感情がのった演技にもわくわくした。
この辺りで私はコーヒーをがぶ飲み。感動はしているのだが眠いもの眠いのだ。私はツイッターで積極的に絡んでいけないタイプだが、いいねはめっちゃ押すし軽率に大量にリツイートする。TLに流れてくるツイートを読んだりリツイートしたりフォロワーさんにいいねされたりして、眠い目をこすりながら少ない人数だがみんなででライブを観戦をしていく。深夜から早朝にかけてのライスト観戦とは孤独なものだが、ツイッターというツールを通じて私は一人ではないと思った。昭和の街頭テレビに町内のみんなが集まってスポーツ観戦しているような様子が、私はたまらなく好きだ。
第3グループではまずフランスのアダム・シャオ・ヒム・ファがいろんな意味で目を引いた。コーチはあのブライアン・ジュベール。ジュベールの生徒らしく4T+3Tと4Sを飛んでくれて私は嬉しかった。映画ウッドキッドの曲にのり、黒にシルバーの挿し色の入った衣装を来て滑るステップシークエンスは躍動的ですごくよかった。フランス男子必須の側転もきめてくれた。
第3グループの最終滑走で登場したロシアのピョートル・グメンニクの演技は圧巻だった。黒と赤の衣装に身を包んだグメンニクはオペラ座の怪人の調べに載せて次々とジャンプを成功させていく。コンビネーションを含む4Sを2本飛び、演技後半の3Lz+3Lo+2Loのコンビネーションジャンプには痺れた。ステップや技と技の繋ぎものびやか。ほころびは僅かにステップアウトした3Fのみ。最後のスピンはレベル3だったが他のステップスピンはレベル4。フリーは155.05点をたたき出しショートとの合計は231.12点で暫定総合1位に。これは最終グループもうかうかしていられない点数となった。
この頃にはツイッターのTLが騒がしくなってきた。仮眠をとっていたフォロワーさんたちが起きだしてきたのだ。私の目も冴えてきた。
氷上に登場した最終グループ6人。ショート1位発進の鍵山優真に5位発進ながらジュニアグランプリファイナル覇者の佐藤駿。高難度ジャンプを持つイタリアのダニエル・グラッスル。地元エストニアのアレクサンドル・セレフコ。ショートで2位発進のロシアのアンドレイ・モザリョフ。私がロシアの選手だと勘違いしていたショート3位発進のアメリカのアンドリュー・トルガシェフだ。
グメンニクも入れて、さあ!誰が勝つ?!という緊張感がリンクを包む。
最終グループ1番滑走は佐藤駿。青き衣が似合う16歳がロミオとジュリエットの物語を紡いでいく。しかしこの日は得意の四回転ジャンプが決まらなかった。だが後半持ち直していく。単独3A、3F+1Eu+3Sの連続ジャンプ、3Loには加点。演技が終わった直後は悔しそう。フリーのスコアは142.32。この時点で3位。後ろには鍵山優真やグラッスル、モザリョフが控えている。メダルに届くかどうかといったところだ。
次にでてきたのはイタリアのダニエル・グラッスル。こちらも私好みのブロンドヘアの可愛い男の子だ。白いシャツに銃に撃たれたような跡がある衣装は評判がよくなかったようでオールブラックに変更されていた。大人っぽい映画音楽にのせて4Lz、4Fを飛んでいく。ほぼノーミスの演技に本人もやれることはできたという感じ。キスクラでは花かんむりも被ってくれて悪くない様子。しかし回転不足があり技術点の速報値より11点ほど下がってしまい暫定2位。
21番滑走は開催地のエストニアのアレクサンドル・セレフコ。ミスが目立ったが、それ以上に地元の拍手が温かだった。
さあ私の今夜のメインイベント、鍵山優真の出番だ。白シャツに可愛いオレンジのサスペンダー。不思議と緊張はしていなかった。鍵山優真ならさらっと優勝してくれるだろうと思っていた。彼が好きだときいたポイフルというお菓子は用意できなかったが、代わりにハリボーというグミをばくばく食べた。ジュニアグランプリシリーズ第一戦のフランス大会のスポンサーにハリボーがついており、ハリボーのトレードマークの男の子のイラストが鍵山優真にそっくりだったからだ。その大会でも彼は優勝している。
スタート地点に立つだけでこの子は踊れるという雰囲気をかもしだす。お馴染みの映画『タッカー』の曲がかかると同時に上手すぎるスケートが始まった。いつもの素晴らしいスピードで入っていったと思った。だがなんと4Tで転倒。私は『ここからよ!がんば!』とツイートした。しかしミスを引きずらずジャンプを決めていく。スピンやステップのレベルが4を取れなかったり、3A+1Eu+3Sのコンビネーションジャンプの最初のジャンプが回転不足だったらしいが、そんなことは私には問題ではなかった。というか必死で観ていてわからなかった。私は『行けー!』と小声で叫んでいた。何せここは早朝の都内のマンションだ。3F+3Tは加点の着く出来。
最後は3A。トリプルアクセルというジャンプは簡単なジャンプではない。それを最後に持ってきたのは鍵山優真のお父さんだときいている。自信があるからこそだろう。全日本ではGOIを足して11.09の点数をこのジャンプ1本でもぎとった。
しかしこの日はそのトリプルアクセルがシングルアクセルに抜けてしまった。万事休す。最後の最後のジャンプなのでもうリカバリーはできない。ショートを2位で発進したロシアのモザリョフとのショートの差はわずか1.51。ジャンプ構成も似ているのでこれは大変よくない事態だ。
演技直後、鍵山優真は顔を覆ってしまう。キスクラでは気丈にふるまいプレゼントでもらったスヌーピーのぬいぐるみを振り、花かんむりもかぶってくれたが表情はくもりがちだ。フリーだけなら4位。ショートは1位発進なので暫定トップには躍り出たが、彼こそよくない事態だということを嫌というほどわかっていただろう。隣に座る操先生の手のひらに書いてあった『Dad』の文字だけが救いだった。
いろんな言葉がツイッターのTLを駆け抜けていった気がする。悲鳴のような声だ。
私は次の演技者のアンドレイ・モザリョフ選手の演技をほとんど覚えていない。おかしな編曲でピコピコいってたなぁとかそんな記憶しかない。でもなんだかジャンプを決めていたし、あー嘘でしょモザリョフが鍵山優馬を抜いて1位だ・・・。そんな感じで呆然とキスクラを眺めていた。鍵山優真は暫定2位。
最終滑走はアメリカのアンドリュー・トルガシェフ。ショート3位発進だったので優勝を狙えると思ったのかもしれない。緊張がこちらにも伝わる演技でジャンプは四転倒。総合8位に沈んだ。
これで鍵山優真は銀メダルとなった。ロシアのアンドレイ・モザリョフが金メダル。同じくロシアのピョートル・グメンニクが銅メダルを獲得した。
こんな早朝にライスト観戦しているのは鍵山優真のファンか、佐藤駿のファンか生粋のスケオタしかいないはずなのだが、ツイッターのTLは若い方ほど冷静だった気がする。ロシアジュニア男子に詳しいのも断然若い方だと思う。モザリョフやグメンニク称えるツイートもたくさん見た。
でも私はとても悔しかったのだ。応援している選手が銀メダルに敗れて悔しいという経験は、初めてだった。砂をかむような思いとはこういうことだったのかと思い知った。
表彰式も呆然と観ていた。鍵山優真はきちんと悔しい顔をしつつ、モザリョフやグメンニクに拍手を送っていた。なんていい子なんだろう。白バラに青いデルフィニュームや青いベロニカ、ユーカリを合わせたヴィクトリーブーケを観て思い出した。私はヴィクトリーブーケの花材についてツイートしたのだった。それが精いっぱいだった。表彰式に流れたヒュルルルルルルヒュールルーという名前のわからない曲は、世界ジュニアの製氷のたびにかかっていた曲だった。私はこの曲を聴くたびにあの残酷な朝を思い出すのだろう。
気がづいたら会社に出かける夫が起きだしていた。窓の外が明るい。朝の6時だ。私は『ゆまちは2位。後はロシア』とだけ答えてベッドに倒れ込んだ。
悔しかったけれど、男子シングルのトップ選手の選手生命は短そうで案外長い。全部勝つということはどう考えても無理だ。ネイサンも世界ジュニアの称号は持ち合わせていない。まだまだ楽しみにしてるわ、そう思いながら明るい陽射しの中私は眠りについた。
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