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殺人現場の俳句【掌編】(1,431字)
「手がかりはこの俳句だけか……」右手小指の爪をかじりながら独り言のように呟く。
すかさず「……はい」と答えたのは、何か反応しないと中年刑事が不機嫌になるのを知っていたからだ。
太いストライプスーツの上司の左手にはノートの切れ端。その紙切れは遺留品ではなく、四十代後半、少し猫背気味の田所がメモしたものである。
翔平は紺のスーツの袖元から覗く電波時計を無意味に回しながら考える。
「今回は早く片付きそうだ」
閑静な住宅街にある特徴のない量産型の家。所々に傷の光る廊下から築二十年以上は経っていることがうかがえる。
現場に入って翔平は、しばらく帰れていない実家を思い出した。
作業する警察関係者たちをぼんやりと眺めながら、翔平の意識はすでに帰ってからの書類まとめに向いている。
田所のセリフはいつものお約束だ。現場に来るとそれっぽいことを言って気取ってみせるのが恒例となっている。
被害者の死因、犯人、殺害方法、謎はない。殺害動機を聞いてまとめていくのはこれからだが、ひと足先に署に送られた犯人はすでに犯行を認めているのでさしたる手間ではないだろう。
被害者は俳句の先生だ。先生と言っても著名な人ではない。
著名ではないというのは翔平の予想である。俳句の有名人は松尾芭蕉しか知らないが、もし、第一人者だったらこんな和とも洋ともつかない凡庸な家には住んでいないだろうと思ったからだった。
二十代最後の年の翔平にとって俳句は外国語のように遠い存在だ。日本語なのに何が言いたいのかいまいちわからない。若い翔平だけではない。現場の他の同僚たちも同じだった。
見た目に反してお茶目なアラフィフの田所は「あえて五七五じゃないところに光るものがある」と言っていたが、恐らく適当だ。
田所が飽きて寄こしてきたメモに翔平はもう一度目をやる。サイドを刈り込んだ頭に手をやりながら黙読した。
やはり、秋を詠んだ句であることしかわからない。「秋○」。後半は読めないがこれで夏や冬を詠んだ俳句のわけがない。秋のことを詠むのに直接「秋」という字を使うのは大したレベルではないんじゃないかと素人ながらに思った。
俳句は被害者の身体の上で発見されたものである。上と言っても、身体に刃物で刻まれていたとか血文字で書かれていたとかそんなドラマみたいなことはない。
普通に俳句用の短冊に筆ペンか何かの文字。それが薄水色のカーディガンを羽織って横たわる胸の辺りに添えられていただけ。被害者の教室の生徒だった犯人が置いたものと思われる。
別に珍しい話じゃない。殺人事件の犯人は往々にしてこのようなメッセージを残すことがある。一種の興奮状態にあるからだろう。形は手紙だったりポエムだったりいろいろだけど。
翔平はふと思った。もし、この句が歴史に残るような、それこそ松尾芭蕉レベルの作品だったら?
被害者の句だったらまだしも、犯人が現場に残した俳句が世に出回ることはない。警察の資料には残るがそれ以上は……。
ここまで考えて翔平はその可能性を否定した。意味はわからないが素人の自分が読んでも大したことがないと思った句だ。名作なわけがない。
翔平は腕時計に目をやりながら、反対の手でメモを握り潰しポケットに押し込んだ。
翔平の意識は再度、署での仕事に向いていた。事務作業は得意なのだ。テンプレ通りにやればいいのだから。
デジタル時計の画面にはPM5:45と表示されていた。午前の事件だったら定時で帰れたのにと思いながら、淡々と作業をする現場の人たちを眺めるのだった。
***
2020年10月に書いたものです。
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