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紫色の石鹸と理想の生活【掌編】4,444字
ボディソープを二回プッシュして手の平で軽く泡立てる。
それを腕から胸、首、脇、背中に塗りたくっていく。タオルやスポンジは使わず手で洗う主義だ。
洗体が終わったら、シャンプーをワンプッシュして今度は濡れた髪に擦り付ける。
一度では泡立たないので繰り返す。
軽く流した後、今度はトリートメントをワンプッシュして髪に擦り付ける。
完全に泡を流し終えたら、今度は別の容器を手に取り二センチほど手の平に絞りだす。
それを鈍い動作で顔に塗りこみながら考える。
めんどくさい。
この後、歯を磨き、風呂上りには顔と身体にそれぞれ保湿も行う。
別にシャワーを浴びるのが面倒なわけではない。ここまでいくつの石鹸の類を使ったか。
こんなにも様々な薬品を使わないといけないほどこの身体は汚れているものなのか。
男は別にミニマリストというわけではないが、毎日、毎日、品を変え替え洗う行為がたまらなく煩わしいのだ。
とはいえ、身体を洗わないわけにはいかない、歯を磨かないわけにはいかない。そんなことをしたら社会不適合者のレッテルを貼られてしまうし、何よりも自分が耐えられない。
何種類も石鹸を使うのが煩わしいだけで男は清潔好きなのだ。
この苦悩からは死ぬまで解放されることはないだろうし、人に言ってもしょうがないと思っていた。
大学の頃の友人と集まって呑んでいたときのこと。気心の知れた相手ばかりの中、気持ちよく酔った男はふと何気なしにこのことを口にしていた。
別に解決策をもらおうと思ってのことではない。ちょっとした話のタネになればとの軽い気持ちからであった。案の定、友の多くは笑った。共感したようなことを口にする奴もいたが、男ほど真剣に苦悩しているようには見えなかった。
男もこの諦めに近いような絶望を悟られないように軽い調子で話したのだから当然と言える。
この日は何事もなく終わった。
次の日、男が会社でパソコンに向かっていると、私用のスマホにメッセージが届いた。
昨夜一緒だった大学同期のAからだった。男と同じように都内でサラリーマンをしている。
メッセージの内容はこうだ。
「昨日の話だが、いい石鹸がある。詳しく話すから今夜どうだ」
男ははじめピンとこなかった。スマホの画面から一旦目を離して思い出してみる。半ば冗談のような調子で語ったあの件しか思い当たらない。とはいえ、Aもあの場では笑っていたはずだが。
次の日も仕事があったのでその夜は居酒屋ではなくカフェで落ち合う。
遅れてきた男が席に着くや否や、Aは手の平大のプラスチック包装されたそれを差し出してきた。
どぎつい紫色。そして包装越しにも匂ってくる強烈な甘ったるい香り。自分が開発担当だったら絶対にこんなのは作らない。一目見てそう思うそれは男の趣味ではなかった。
受け取って手の中で裏返してみる。商品名もそうだが成分表示も日本語ではなかった。言うまでもなく外国製だ。
文字はアルファベットでもない。キリル文字かとも一瞬思ったが、少し違う。見たことのない文字列が並んでいた。
これは使わないだろうなと思いながら眺めていると、Aが口を開く。
「この石鹸いいんだよ、これ一つで頭からつま先まで全身洗える。リンスなんかもいらない」
男は過去に洗髪・洗体兼用の石鹸を使ってみたことがある。でもいまいちだったのだ。
Aは続ける。
「売ってんの見たことないだろ?知ってる人は知ってるんだよ。使うと手放せなくなる」
もしや、マルチの類かと思ったがAが察したように言う。
「別にお前に売りつけようってんじゃない。普通にネット通販で買えるやつだからさ」
「これやるから騙されたと思って使ってみろよ」
そう言ってAはカバンから更に2つの石鹸を出すと行ってしまった。
使う気はさらさらなかったが、店に置いて帰るわけにもいかないので3つのドブ色の石鹸を持って帰る。アパートに帰ると洗面台の戸棚に投げ入れしばらくは存在自体を忘れていた。
ある日。
仕事から帰ると一番にシャワーを浴びる。いつものルーティーンをこなしながらふと思い出す。
そういえば……。
濡れた身体のまま脱衣所に行き例の戸棚を開ける。目に入るより先に強烈な匂いが鼻をつく。
乱暴に包装を開け捨て、裸のそれを持って風呂場に戻った。
まじまじと見てみる。黒に近い紫色。そして表面にはうっすらと白い粉がふいていた。濡れた手で触った部分だけがさらに濃い色に変わっている。
そして強烈な甘ったるい匂い。ラベンダーやバラではない。飴やチューインガムのような人工的な匂い。
何をしてるんだ俺は……。
その匂いで我に返る。
洗体も洗髪も済んだのに何で石鹸なんか持ってきてんだ。使うつもりなんてないのに……。自分の行動に不審をおぼえながら石鹸をボトル類の脇に投げるように置いた。
次の日。
いつものようにシャワーを浴びようと風呂場の戸を開ける。途端むせかえるような匂いが漂ってきた。
昨日のことを思い出す。
風呂場全体がこの匂いでいっぱいだ。息が詰まりそうだ。すぐに換気する。もちろん、この忌まわしい石鹸を使う気などさらさらない。しかし、なぜか捨てようとも思わなかった。
次の日。
相も変わらず甘い匂い。お菓子工場にいるみたいだと思った。レーンを流れるのはクッキーやケーキ、ではなくこの石鹸。
そう空想すると何だか愛らしく見えてきた。
試しに使ってみるか。
手に取り泡立てる。水に付けてこするや否やきめ細かい泡が立つ。まるでネットを使ったみたいだ。香りも薄まって存外悪くない。
薄紫色のシャボンを身体に塗りたくってみる。泡を手の平から前腕部に滑らせると、そのまま全身に泡がいきわたっていく感覚があった。
もちろん、そんなことはないのだがそう思うくらい滑らかな肌触りだったのだ。
さらに石鹸を泡立てると一気に全身に塗りたくる。何とも言えない多幸感。
何の躊躇もなく、髪を洗い、洗顔もその石鹸を使った。
上に何もつけたくないとの思いから保湿やデオドラントの類も使わなかったが、肌の調子はいつもよりもずっとずっと良かった。
次の日。
社外に用事があり屋外を歩いた。夏の盛りは過ぎたとはいえまだまだ暑い季節。外にいると汗をかく。汗をかくが、この日の汗に不快感はなかった。
いつものベタつく汗ではない。もちろん不快な臭いもない。水のようにサラサラしていて自分の汗ながら綺麗とさえ思った。
早くあの石鹸を使いたい。そう思って男は帰ると一目散にシャワーを浴びた。
多幸感。悪いものを全て流してくれるような爽快さ、表面の不浄だけではなく心のモヤモヤさえも取り去ってくれる気がした。
前日のように洗体、洗髪、洗顔を済ます。歯磨きをしようと歯ブラシと歯磨き粉を手に取る。
ふと考える。
考えるや否や手が勝手に動いていた。いつもの歯磨き粉を投げ捨て、紫の石鹸を歯ブラシにこすりつけた。
力を加えたわけではないが、ちょうどいい大きさの欠片がブラシの上に乗る。躊躇はなかった。根拠はないが問題ないと確信があった。
口に入れると甘い香りが口から鼻へと流れていく。味こそしなかったが大好きなお菓子を食べているような喜びを感じた。
しばらく幸福な時間を楽しんだ後、水を含み口をゆすぐ。そのまま飲み込んでしまいたいと思うほど名残惜しかった。
それから男は他にもいろいろと試していった。
手洗いはもちろん、うがい薬としても使ってみた。水に石鹸の欠片を落とす。まるでそのために作られているのかと思うほどすーっと溶けていった。
石鹸水を口に含み喉の奥で何回か鳴らす。うがいした後はとてもすがすがしい。埃やウイルスが一掃される感覚。
水に簡単に溶けることを知り、石鹸一つを溶かした溶液を作った。男はそれをうがい薬としてだけではなく消毒液代わりに、洗剤代わりにと何でも使った。
皿の油汚れも、シンクの黒ずみもよく落ちる。洗濯洗剤としても優秀だった。柔軟剤や芳香剤を入れてもいないのに新品のように綺麗になった。甘い香りが服につくのも嬉しかった。
Aからもらった石鹸は残り一つ。追加が欲しくてAに連絡を取ろうと思ったが、電話が繋がらない。メッセージを送っても既読にならない。
ネット通販で買えると言っていたAの言葉を思い出し、検索してみようと思った。
しかし、キリル文字に似た外国語が書かれたこの石鹸。商品名すらわからない。
パッケージを手に取りおもむろに眺めてみる。なぜか読める気がした。
頭に浮かんだ文字列を検索エンジンに打ち込む。
シンプルな通販サイトがヒットした。そのサイトは紫石鹸しか扱ってはいないようだった。
サイトもあの文字だったが問題ない。
1つ500円。石鹸にしてはかなり高い。しかし、効果を考えれば納得できる。
100個単位でしか買えないようだ。とりあえず100個、5万円分を購入。
何と次の日には段ボール箱が届いていた。
通販で好きなだけ買えることがわかってからは、男は惜しみなくその石鹸を使った。
たまに意味もなく手や顔に塗りたくることもあった。
以前はタバコを吸っていたが、この石鹸を使い始めてからは自然と喫煙しなくなっていった。
その代わり、石鹸を鼻に近づけ大きく息を吸い込み香りを楽しむことが男の気分転換になった。
周囲からの奇異の視線を微塵も気にすることなく、この日も石鹸の香りを楽しんでいた。
ふと食べてみたくなる衝動に駆られる。初めてではなかった。
しかし、いつも理性が勝っていた。いい香りがするからといって食べるなんてまるで幼児ではないか。
でも、口に入れるだけなら……男は歯磨き粉としてマウスウォッシュとしてうがい薬として毎日口に含んでいた。
口内環境は劇的によくなった。虫歯は消え、口臭もしなくなった。朝起きても不快な粘つきがない。
一口噛んでみる。噛み切るまでもなく欠片は口の中に滑り込んできた。何とも言えない舌触り。上質なアイスやケーキのようだ。
味わうように噛んでみる。ひと噛みひと噛み幸せを感じる。身体に悪いわけがない。
躊躇なく男は飲み込んだ。今まで味わったことのない絶頂を感じた。そして今まで食べていなかったことを後悔した。
その日から男は日に5個の石鹸を摂取するようになった。朝昼晩に1個ずつ。そして飲み水にも石鹸を溶かしている。毎日2個を溶かした溶液を男は飲む。ボトルに入れて外出先にも持っていっている。
コーヒーやお茶の類は飲まなくなった。というより、石鹸と石鹸水以外のものを口にすることがなくなった。
必要な栄養素は全て含まれているんだろう。身体は健康そのもの。以前よりも軽くなった気がする。
周囲の目は気にならなかった。しかし、同僚が石鹸を食べることをしつこく非難してきたのでつい手が出てしまった。それが原因で解雇された。
問題ない。石鹸はなぜか発注していないのに届く。金を払ったのは初回の一回きり。
いずれ、今住んでいる部屋も追い出されるだろう。
問題ない。どこにいても石鹸は俺の元に来る。確信がある。
石鹸の香りのする汗を舌で執拗に舐めとっている男は幸せそうだ。
男は理想の生活を手に入れた。目は紫色に輝いているように見えた。
2020年10月
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長い話を書く練習で書いたものだと記憶しています(それでも4千字……)。2,000字ぐらいに収めるところを無理に長くしたような気がしないでもないです。
見出し画像にお写真をお借りしました。
少し長いもの
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