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妊婦の一日【小説】1,184字
身体を斜めにして手すりを掴み、足元を目で確認。まず、片方の足を下の段に下ろし、そして同じ段にもう片方の足を下ろす。これを繰り返して階段を下りていく。上る時も大体同じだ。手すりをつかみ身体を斜めにして一段一段上っていく。身体を斜めにしないと足元が見えないのだ。
普段の数倍の時間と労力をかけて階段を上り下りする。立ち止まり立ち止まりハァハァと息を吐く。その脇を足早に駆けていくサラリーマン。サラリーマンが行ったかと思うと今度は歩きスマホの青年。肩がかすりヒヤリとする。青年はこちらを振り返り、一瞬ギョっとした顔をしたかと思うと小さく舌打ちをして行ってしまった。
なんて、なんて世知辛いのだ。誰も彼も見て見ぬふり。腹を大きくしてマタニティドレスに身を包んだ妊婦が辛そうにしているのに。このご時世、手を貸せとまでは言わないが「大丈夫ですか」のひと言ぐらいあってもいいのではなかろうか。
何とか階段を上り下りして目当てのホームに到着する。普段であれば二、三本前の電車に乗れていたはずだ。数分待って電車に乗り込む。あいにく座席はすべて埋まっている。優先席には先客がいる。かすかな期待を胸につり革を掴んで座席の前に立つ。乗客たちの目線がまずはお腹に集まり、そして上にスライドしていく。ある者はすぐに目をそらし、ある者は露骨に顔をしかめる。ホームのベンチでも席を譲っては貰えなかったのだ。期待はしていなかった。期待はしていなかったとはいえ……ああ、世知辛い、世知辛い、世知辛い。
結局、最寄り駅につくまで誰も席を譲ってくれなかった。それどころか奇異で異質なモノを見るかのような視線を向けられる。世の妊婦たちは皆、このような視線に晒されているのだろうか。這《ほ》う這《ほ》うの体で自室に辿り着いた。行って帰ってくるまでにいつもの数倍の時間がかかった。労力は十倍も数十倍もかかったように感じられる。
妊婦さんたちはこんなにも大変なのに誰も助けてくれないのか。これが今の社会なのか。誰もが皆、母体から生まれてきたのではないのか。それすらも忘れるほど、妊婦さんたちを慮《おもんぱか》る余裕もないほどにこの社会は疲弊しているというのか。
腹に縛りつけていた二枚の座布団を取り外し、マタニティドレス代わりに身体に巻いていたカーテンも外す。一気に楽になる。私は数時間だけの体験だったが、本当の妊婦さんはこれがずっと続くのだ。今回体験してみてよくよくわかった。社会は妊婦さんに優しくない。誰も彼も救いの手を差し伸べてくれなかった。労いの言葉さえなかった。あったのは露骨に嫌なものを見る視線のみ。
妊婦さんには優しくしよう。弱者に手を差し伸べることができる社会にしていこう。まあ、私はもうすぐ五十の独身男で子供を作る予定はないし、万年無職で社会に出る予定もないのだが。坊主頭に手をやるとびっちょりと汗で濡れていた。やっぱり妊婦さんは大変だ。
2021年10月
見出し画像に写真をお借りしました。
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