海と毒薬/#1 眼差しの交差点
遠藤周作『海と毒薬』を悠々気ままに考察する。いわゆるネタバレを含む。ご注意を。
本編は過去編
本編が終了した後の出来事を描いた物語は「後日譚」と呼ばれる。それは一般に本編のあとに置かれるが、『海と毒薬』の導入部は例外の一つである。
本編の前に置かれた導入部は、物語の時系列的には現代に近い。換言すれば、本編は壮大な過去編である。
北海学園大学で教鞭を執るテレングト・アイトル(2003)によれば、この導入部は物語全体の主張を決定している。また全体の約八分の一を費やしており、決して短いとは言えない。
この記事では導入部を中心に考察を進める。
スフィンクスの予告
文学を知らない私は、「後日譚を本編の前に置くことの効果について」等の一般的な話はできない。だが『海と毒薬』に限定すれば、本編を予告する効果の大なることは明らかである。
どんな予告か。悲劇の予告である。
どんな悲劇か。オイディプスの悲劇である。
オイディプスの悲劇が念頭にあることについては、次の文を思い出していただければ明らかである。
オイディプスの悲劇の具体については、前の記事で書いたので繰り返さない。しかしその教訓だけは念頭に置いておきたい。
「謎を解きたい/犯人を探したい」等の〈ふしぎ〉を追いかけたいという欲求(あるいは追いかけなければならないという使命感)が満たされた先に、自己破壊的な結末が待っていること。
運命の前にしたときに、人間はどうしようもなく弱い存在であること。
本編を読むにあたって差し当たり押さえておきたい教訓である。
眼差しの交差点
導入部の主人公である気胸の男。本編の主人公である医学部助手の勝呂。この二人は同じ場所で同じものを見ている。海とスフィンクスである。厳密に言えばスフィンクスを思わせる笑みを浮かべた人形であるが。
ふたり仲良く並んで海とスフィンクスを眺めているわけではない。別々の時にそれぞれが見ている。
ふたりの眼差しの交差点にある2つのイメージ。このイメージによって導入部と本編が結ばれ、小説全体の投げかける問いが多様になり、現実的なものになっている。
ちなみにこのイメージの文学的な重要性については、前述のテレングト・アイトルに先立ち、評論家の佐伯彰一も新潮文庫版の解説の中で指摘している。もはや教科書的な読み方である。
本編の中で繰り返し登場する海に対して、スフィンクスは本編中には登場しない。それにも関わらず、海と並ぶ重要なイメージとして位置付けられるのはなぜか。それはスフィンクスが悲劇を予感させるモチーフであり、本編が悲劇的な展開をするたびに想起されるためである。
次回予告
ここまで導入部の位置付けや効果について見てきた。次回は気胸の男の幸福観や悪癖を確認する。