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河内長野 楊枝産業史8
試行錯誤を続けてきた河内長野の爪楊枝業界ですが、昭和10年代に入ると、戦争の色が濃くなり、経済統制も進んでいきます。
楊枝業界では、機械生産した角楊枝の片面を焦がして「黒文字楊枝っぽい」代用品を作ったりという時代を経て、昭和10年代後半にはついに爪楊枝の製造はストップ。終戦までは、空軍の弾薬箱の製造といった、いわゆる「軍需工場」になるメーカーも出るなど、混乱の時代を過ごします。
…戦後、ようやく工場が返却されたのは昭和21年。生産の正常化にはしばらく時間がかかり、竹や黒文字による手作業から再開し、徐々に機械化に戻っていくという状況だったようです。
そんな昭和23年、河内長野の土井金三氏により今後の躍進の契機となる技術が考案されます。
それは、白樺を薄く剥いた板を刃物で切削し、ヒゴ状の丸い軸を生み出す方法。
これにより、消費者にも馴染みある「丸軸」形状の楊枝の生産が飛躍的に向上することになります。
ちなみに、昭和23年8月には、大阪妻楊枝製造販売組合の定款が起草されており、同業者相互間の親睦はもちろん、物品の共同仕入れや配給品の分配などについても規定するなど、業界としての体制も整いつつあった時期です。