ニシ
ブチのネコはうずくまっていた。
ニシはどこかに走って行ったようだ。
ニシ
ブチのネコがうずくまっていたのは道具小屋のある庭の片隅だった。
ニシは庭を囲む塀の上から、かたまりのようになっているブチのネコを見つけた。
やあ、ブチくん!
ブチのネコはよくその場所で昼寝をしている。声をかけられるとブチのネコはおっくうそうにチラッと顔を上げる。声をかけてきた相手を確認すると相手が誰であれ
ふん、と首の向きを変えて、また昼寝に戻る。
そのせいで、最近はブチのネコに声をかけるネコはいなくなった。ニシ以外は。
ところが今日、ブチのネコは、顔を上げない。
「ブチくん?」「どうかしたのかい?」
「…。」
「ブチくん?!」
「…何も…食べて…ない…。」
やっとしぼりだしたというような、小さくてかすれた声だ。
「え?!何も食べてないだって?釣り好きのおじさんはどうしたんだい?」
「…。」
それはブチのネコがずっと疑問に思っていることで、まったくもってこちらが教えてほしいことだった。
「とにかく何も食べてなくて動けないんだね。まかせて。ぼくが何か食べる物を見つけてくるよ!ブチくん!」
このあたりのネコはみんなニシのことを知っている。
ニシは困っているネコを放っておけないタチで、そのうわさが耳に入ってくるからだ。
母親ネコが死んでしまった子ネコを、町はずれのばあちゃんネコのところまで連れていって、めんどうをみてもらうように頼んだり、
飼い主家族が引っ越ししておいてきぼりにされた白ネコのところに、毎日毎日出かけてはただそばにいてあげたり。
そんなウワサ話を聞いて、
ふん。困ったやつを助けてなんの得になる?
子ネコを手下にでもしたいのか?
白ネコがかわいいメスネコだからいい顔したのか?
うさんくさいヤツだ。
ブチのネコはそう思っていた。
ブチのネコは何にも困っていなかった。
釣り好きのおじさんの庭の道具小屋に住んでいて、おじさんが食べ物も飲み水も与えてくれた。自由にどこにでも行けた。
食べる物に苦労しないから、身体もどっぷりと大きくて、われながら毛並みもつややかだ。ケンカをしかけてくるヤツもいない。
釣り好きのおじさんの家の3軒先には、酒びたりのおじさんの家があった。やせ犬が飼われていた。
いつも叩かれて蹴られて、いつもおなかを空かせていた。庭から出られないようにつながれていた。
「たまらなく、おなかが空いて動けないんだ…。
なにか食べる物は余っていないかい?」
コンクリの塀の下からやせ犬が弱々しい声で話しかけてきた時、ブチのネコは一瞬足を止めてチラッと見下ろした。そして、
ふん、と首の向きを変えてそのまま通り過ぎた。
かわいそうに、やせ犬くんは運がないな。
そのやせ犬はもう、酒びたりのおじさんの家にはいない。
おじさんが酒を買いに出かけているあいだに
ニシとニシの仲間が逃してやった。
ネコだけではなく犬まで助けてやるのか。
ネコが犬を助けるなんて聞いたこともない。
やっぱりうさんくさいヤツだ。
ブチのネコはそう思っていた。
偶然にも、うさんくさいほどだれかを助けることが好きなニシが、空腹で動けないところを見つけてくれて正直なところ安心した。
ニシがいてくれてよかったと思った。
しかし、ニシはまだ戻らない。
顔はうつぶせたままで、ほんの少し目を開けた。空は薄いピンクのグラデーションの夕空だった。
助かったと思ったのに、ニシはまだ戻らない。
犬さえ助けたのに。
できれば、ニシが戻る前に釣り好きのおじさんが帰ってきて、
「よう、ブチ。ようけ釣れたからお前も食べろや。」
とクーラーボックスから銀色のアルミの皿に魚を乗せてくれれば、ニシの世話にならなくて済むのに。
そうすれば、これまでだれも助けてこなかった自分を情けなく思うこともなくて済むのに。
ブチのネコは顔をあげた。
空はぐんじょう色に変わっていた。
まもなく、ぐんじょう色は目にあふれてきた涙で滲んで見えなくてなった。
ニシが見つけてくれるまでは空腹で何も考えられなかったのに、腹の中の物がなくなってもうろうとした頭の中雲間が晴れるようにくっきりしてきた。
ブチのネコはゆっくり目を開いた。目を開ける前から夜になったことはわかっていた。
ブチのネコはゆっくりと顔を上げた。空にはいくつか星も光り始めていた。
ブチのネコはゆっくり歩き始めた。
よろよろ。ふらふら。
歩ける。歩けるんだ。
歩ける。歩けるんだ!
やっとわかった。
ブチのネコはずっと困っていた。
自分が何がほしいのか、
自分が何をしたいのかわからずにいた。
だから、ただ昼寝をして、
釣り好きのおじさんがくれる食べ物を食べて生きてきた。
だれかと笑ったこともない。
だれかに喜んでもらったこともない。
ここで終わるわけにはいかないんだ。
どこに向かえばいいかもわからないし、どうしたらいいかもわからないけど。
ニシが隣り町の魚屋さんからもらった売れ残りのイワシを加えて戻ると、
ブチのネコは道具小屋のある庭にいなかった。
「ブチくん?!」
ニシが塀の上にひょいと飛び乗って、上から見渡すとよろよろと歩いていくブチのネコが見えた。
「ブチくーん!!」
ニシが呼ぶとブチのネコは
満足そうに笑った。
ブチのネコ、名前はノノ。
「ニシ、ありがとう!」
おわり
挑戦することを教えてくれた西野亮廣さん
ありがとうございます!
2020.12.31 ツクシノコトバ