見出し画像

つながる祈りの演奏会を迎えるまで

<4696字>

本当は、月が変わるまで書くつもりはなかったのです。
しかし、(思い違いだったとしても、)奏者の言葉がいま必要とされていると感じました。こういう時の私は何だかんだ、私がやらなくて誰がやるんだと、そういう使命感に駆られてしまうのです。


はじまり

いつ頃だったのでしょうか。エスフェスの練習時点で既に先輩(以下「代表」)がやろうとしていたことを認識していて、当然出演するものだという風に考えていたのは覚えています。エスフェスのホール練で、「同期指揮者は卒演と日程が重なっているから出られない」みたいな話をしたことは覚えています。

当時の私にとって、いわゆる部活以外での外部演奏会(いろいろ物議を醸しそうなのでこの言い方に統一しましょう)で自分ごととして関わったのはメモコンとエスフェスくらいのもので、「知人が演奏会を作ろうとしている」ということ自体が途方もないことであり、同時にとてつもなく貴重な機会であるということを意味していました。

なので私にとって、代表が演奏会を作るということは、その趣旨に一切関係なく「当然出演するもの」であり、それ以上でも以下でもなかったというのが正直なところです。


初回練

随分懐かしいですね。初回練とはいつだって、初回特有のわくわくがあります。アルトのメンバーは特に、全員存在は認識していたのでだいぶ気がラクで助かりました。

この時に、「夢の明日に」のソロをもらいました。

代表:このソロは、本番もみゆさんが吹くの?
みゆ:……吹きたいです^^

ソロに関して久々にわがままを言わせてもらった気がします。「輝く」定演の、バーンズ5番1楽章のソプラノソロ以来でしょうか。

そもそもパート決めの段階で夢明日のパート希望を1stで出していたのが私だけであることは分かっていたので、いくらか言いやすかったです。

いつかのスペースで代表から「NEW-Sでやるならあの曲のソロはみゆさんがベスト」みたいなことを言っていただけたのがけっこう嬉しく、大事にしている記憶のひとつです。

あとはやはり「おほなゐ」。フルスコアを刷って来るんだったと若干後悔しながらも、この段階から曲の輪郭はかなり見えていたので、少しテンションが上がりました。ちゃんと自分である程度練習をしてから合奏に臨んだということも大きいでしょう。

「テンションが上がった」という表現は果たして正しいのでしょうか。分かりませんが、感情に忠実に綴るのが基本マインドです。結局私はいつでも、うまく曲が通れば嬉しいし、音楽がよりよい方向に変化すれば嬉しいし、それだけと言えばそれだけです。私は音楽が持つ可能性を、信じているようで別に信じてないし、特別興味もない。正直ね。「観測対象」とかが近いかもしれない。お前も音を鳴らしてるんだよ。

大昔ですが、ラッキードラゴンをやってテンションが上がった過去もあったなぁということを、書きながら思い出しました。私って、音楽に対してよくも悪くもフラットな人間なのかもしれないですね。そんな気がしてきました。

読み返すと今の私とはわりと語り口が変わっていて若干恥ずかしいですが。

ちなみに私のパート希望は「風紋は2nd、夢明日は1st、おほなゐとその後は2nd、それ以外は何でもいい」でした。理由は順に「その方が楽しそう、2ndはやったことあるしあわよくばソロやりたい、冒頭Gのピッチを合わせる自信がなさすぎる」です。


練習諸々

あんまり出席できなかったよね~。
めちゃくちゃ私事ですが、11月末に地元の市民ミュージカルに出演しまして、その練習にひたすら参加していたので初回練以来全然練習に行けてなかったんですよ。(余談ですがミュージカル本番の様子が市の広報の表紙に採用されていました、恥ずかしい)

曲が難しい云々~みたいな風に言われていましたが、正直私にとっておほなゐ含めて「激ムズ曲」は存在しないという認識でして。多分それは私が1stに薄らヤバさを感じて2ndを希望することによって回避をしたからって理由もなくはないのですが、ちゃんと自分が果たせる範囲の責任選択ができたのは良かったかなぁとは思っています。それでももう1,2回は練習行きたかったですけどね。

この気持ちはいつかの練習でトロンボーンの彼と共有しましたが、「NEW-Sの練習楽しすぎ問題」を取り上げましょうか。

久しぶりに参加した練習でまず思ったのは、「居心地の良さ」。
多分別に運営の人がそこまで意図してたわけでもないんじゃないかな?とか勝手に考えているのですが(意図して生み出した空気だったらすみません、ありがとうございました)。

その時にパッと考えた主な理由はこの2つ。
・指揮者が長年の知り合いであること
・平均年齢が他の外部演奏会と比較して少し高めであること(≒演奏技術が安定して高い)

なんかこう、すごく正規の視点ではない視点で物を語ってしまいそうなんですけど書きますね。演奏会としては重めなテーマを採用することによって、エントリーする奏者をある程度淘げることができたんじゃないかな~みたいなことを思ったんですけど、すげー嫌ですねこの視点。すみません。

まあけど、代表をはじめとする運営的にも、コンセプトに賛同しかねる人に参加されても困るでしょうし、結局正解なんだろうなとも思います。

正直、テーマがあって、その上で吹奏楽をやるとなったときに、私の中でどう吹奏楽に取り組めばいいのかという分からなさはありました。

だからどうしたかと聞かれると、考えるのをやめたんですけど。
考えるのをやめたというのはつまり、とりあえず楽譜の音に向き合おうとしたということです。いつも通り。そういう自分のマインドを今振り返ってみても、別に間違ってはないんじゃないかなと思います。

私、音楽に意味を見いだそうとするのがあんまり得意じゃなくて。私にとっては、考えればわかるとか浮かんでくるとかアイデアを出すとか、そういうものでもないです。音楽的な盛り上がりで盛り上げるのが正しいだろうし、ハーモニーは音程とバランスを合わせるのが好ましい。それでいい。

で、まれ~に自然と「あ、この音って多分こういうことじゃないかな」って浮かんでくる。考えるというより、「気づく」ものかな。けっこうそういうことに気付けたり浮かんだりした曲って歴代の経験曲でも少なくて、パッと思い浮かぶのはラキドラとたなばたくらいかしら。

まあいちばん大きいというか根底にあるのは、「私が自分の気持ちに嘘をつけない」という部分だと思います。だからこう、例えば今回の演奏会でいくと無理して「社会にアクセスするために吹くぞ!」みたいな心意気でやろうとすることはまじで意味が分からなくなりそうだったのでやりたくなかったんですよ。やりたくないというか、できないというか。そういう薄ら寒い「向き合いをやる」くらいなら、背伸びせずに淡々とやれることをやる中で、気づけるのを待つほうがよっぽどまともに向き合えるかなという気がしていました。

文字にするとちょっとまともで真面目に見えますが、実際は正直もっと気持ちはライトだったし、音楽的な「正しい」に限りなく近い演奏ができる素敵なこの団体の音楽を、カジュアルに楽しんでいました。

というかそもそも、このnoteも別に書く気なかったんですよ。頑張って文字にしてるけど、そんな文字にしなければいけないようなことはそんなにないなと思い続けていたので。だからいつもよりアウトプットの精度はそんなに高くないと思います。にも関わらず書いている理由は冒頭の通り。


きっとみnote

そんなに文字にする気がない日々を送る中で、唯一NEW-S関連で書いたnoteがこれです。

珍しく、超!真面目に書いたやつ。真面目というか「真剣」か。こんなだらだらnoteよりよっぽど完成度高いです。

このnoteについて語りすぎるのはダサいのであんまり喋りたくないのですが、実質きっとみ指揮者宛っていうちょっと気持ち悪い背景事情があり。

ほらこういうことを言うとnoteの良さがなんか薄れるでしょ。
けどこれを書いたあたりから明確にきっとみが好きになりましたね。

うーんなんか、もっとちゃんと好きというか、私の中で大きな存在感を示している曲なんですけど、喋りたいようなことは意外とないですね。

当然のように「答え」と言わず「きっとみ」と略していますが。
そういえば本番終わりにした会話の中でしれっと私以外の人が「きっとみ」と言っていたのを初めて聞いたのですが、なんか反応するのが癪だったのでスルーしました。ごめん。


人と防災未来センター

「名前に『人と』って入ってるのがいいよね~」という、人が大好きなあの子の発言も印象的なゲリラ開催イベント。何だか最近この3人組でよく出かけます。やっと作られたグループLINEの名前は「サバイバルシンフォニー」になりました。ださいな~ChatGPTのセンス。

前日急に連絡が来たので、連れ出されることにしました。
連絡が来てなかったら絶対に足を運んでいません。演奏会までにできることを、演奏会より前にやらないことがすごく勿体なく感じたので行きました。

このときのことをね~。特に言葉にしたくないと思ってしまってるんですけど。

思考と感情の波に流されそうになりながら、私らしくない感想を除外(する癖が私にはある)して、心のやわらかい部分に積もった繊細な分を精査した結果のツイート。

あまり本質じゃないかもしれないけれど、それでいいということにしたい 少なくとも私にとってのきっかけも理由も全てそれで説明がつく

縮小アカウント

の後に、考えたこと。なので深い部分を喋る気はやっぱりありません。

話は変わりますが、展示を見る系の場所に行く度思うことに「時間が足りない」があります。科学館でもやらかした記憶がある。この時も、3人で映像を見た後に展示コーナーに案内されるという順路だったのですが、気づいたら近くにいたはずの2人がいなくなり、気づいたら「実は閉館まであと30分」と声を掛けられました。

私は文字を見つけると無条件で一通り読もうとしてしまうようです。博物館とか資料館とかを想像してもらうと分かると思うのですが、ああいう場所における文字って「読んでもらう前提の文章」と「全員に読んでもらうつもりはしていない文章」の2種類ありますよね。後者の文字を読む過ごし方がしたいなら、午前中から足を運ばなければならないのだろうなと思います。あとは1人で行った方がよさそうだ。けど「そろそろ行くよ」と言ってもらえるのも、見て感じたことを話してくれるのも、またありがたかったりするので、難しいですね。

壁を1,2面見るだけで1時間くらい使ってたみたいなんですけど、今思い返してもあの時の時間経過は何がどうなってそうなったのかはよくわかりません。めいっぱい、震災によって生まれた傷を目などで吸い込んでいました。

被災した人たちが、「捨てられないから」と寄贈したもので溢れていました。それだけの声が、全部ここに集められているのだと思いました。

「伝えなければいけない」
壊れたものと、写真と、起きた話の分だけ、「当事者が」そう思ったという事実。

我々が何かをすることの偽善性とか、消費活動の一環に震災を取り込んでしまうことの残酷さとか、それに対して生まれる迷いとか、そういう気持ちをまっさらにしたとき、ただ「伝える」ためにこの場所が生まれたのだという事実が見える、ような気がしました。

連れ出され、足を運び、伝わるべくして伝わったものたち。
受け取った私たちに、何ができるのでしょう。

いいなと思ったら応援しよう!