25歳無職がリトルマーメイドをレンタルするということ⑤
-前回までのファンタジィ-
無職の橋本は突然『リトルマーメイド』をレンタルしたくなった。なんとか『リトルマーメイド』をレンタルすることに成功したが、秘密組織マーメイドラグーンにコハダの握りに改造されてしまうという恐怖が橋本を狂気に駆り立てていた。しかし調査をしてみるとマーメイドラグーンは思ったより良いところだと判明した。
-過去のファンタジィ-
25歳無職がリトルマーメイドをレンタルするということ①
25歳無職がリトルマーメイドをレンタルするということ②
25歳無職がリトルマーメイドをレンタルするということ③
25歳無職がリトルマーメイドをレンタルするということ④
『リトルマーメイド』のことを思い出し、頭の中で『Under the Sea』が鳴り止まなくなった。
あれからどれくらい経っただろう。
25歳無職の橋本、ついに思い焦がれていた『リトルマーメイド』を観ようとしていた。
自宅の階段を音も立てずにあがっていく橋本。今にも電球が切れそうなランプ。光っては消え、消えては光る。階段は決して全貌を明らかにしない。必ず陰がある。
部屋の中は静寂を凝縮したような抽象的な音が鳴り続けていた。明かりはついていなかったが、暗さに濃淡があった。どこに何があるかぐらいは分かる。いつもの場所にある、部屋の明かりのスイッチを橋本は押した。
「こんばんわ、橋本。」
部屋が明るくなる。
凛とした立ち姿。丁寧にあいさつをするその様は紳士そのもの。だが確かにそこには知性と品格を兼ね備えた秩序だった狂気が充満していた。
「そろそろ僕の左乳首から指を離してくれないかな、ミスター橋本。」
「ひぃぃぃぃぃい!なにそれぇぇぇぇぇえ!」
明かりのスイッチだと思っていたもの、それは紳士の乳首だった。そしてそこには大きな乳輪。まるでひまわり。いや、これはひまわり。この紳士は紛れもなく、乳輪がひまわりのおじさん。
突然流れ出すミュージック。
それは『Part of Your World』。
人魚のお姫様アリエルは陸地への想いを歌い上げる。『リトルマーメイド』はいつのまにか始まっていた。橋本は眠っていたらしい。
少し休憩をするためにプレイヤーの停止ボタンを押す。
「ご名答、これまた僕の左乳首。」
「とまれ、とまれ、とまれぇぇぇ!」
『リトルマーメイド』はとまらない。
陸地に憧れをもつ人魚姫アリエルは、あるとき人間の王子に恋をする。そしてつのる恋心と人間との接触を禁じる父への反発から悪い魔女との取引にのってしまう。自らの声と引き換えに3日間だけ人間になる魔法をかけてもらうが、3日目の日没までに王子と恋に落ちなければアリエルは悪い魔女のものになってしまう。
乳輪がひまわりのおじさんはカウントダウンを始める。
「ごー」
すべては幻か。真実はどこだ。
だが真実が人を救うとは限らない。
「よん」
秘密組織マーメイドラグーンでの狂喜乱舞。
たとえすべてを失ってしまっても、最後は世界が振り向くかもしれない。
「さん」
公園でたんぽぽに話しかけたスペシャルな日。
返答がないのはわかっている、だが語りかけなければならない時もある。
「にぃ」
秘密組織マーメイドラグーンにコハダの握りにされてしまう恐怖。
万人に愛される悲しみ、ただ一人に憎まれる喜びを知れ。
「いち」
TSUTAYAのセルフレジで出会った乳輪がひまわりのおじさん。
たとえ幻想だとしても、きっと彼は友人だ。
「ぜろ」
彼の名はサンフラワー・アンクル。職はなかったがどこまでも紳士だった。かつて彼もまた無職なのに『リトルマーメイド』をレンタルした。そして秘密組織マーメイドラグーンに乳輪をひまわりに改造されてしまった。今や彼は悲しき爆弾。乳輪のひまわりが散る時すべてがゼロに戻る。
夏は終わったと思っていた。だが日差しはどこまでも強く、汗はいつまでも流れる。それでも頭を垂れた夏の花はもはや太陽を仰ぐことはできない。ただできることは下を向いて世界が終わるのを待つことのみ。
黒くなった花びらが、はらりとも言わず落ちた。
「いや、僕は言う。こんな風にね。はらり☆彡」
「もっとラブリーに。はらり♡」
「ケツの穴みたいに。はらり*」
カーテンの隙間から朝日が差し込む。窓の外には青の世界が広がっていた。部屋から出ると、大きな音を立てながらのっそりと階段をおりていく。ガチャガチャと食器がなる。蛇口から水が勢いよく流れる。殺人事件を知らせたあとに東京のトレンドを紹介する朝のニュース。咳払いをする父。朝食を作りながらしゃべり続ける母。
両親が息子のお目覚めに気づく。
「おはよう、自慢の息子サンフラワー・アンクル!」
「まあ可愛い子、サンフラワー・アンクル!乳輪の調子はどう?」
そうか、僕は、サンフラワー・アンクル。
突然『リトルマーメイド』のことを思い出した。そうなったら最後、あのミュージックが鳴り止まない。『Under the Sea』が聞こえるんだ。耳から離れない。
陸地は1日働くだけ
海の底はずっと遊んでのびのびできる
こんなに素晴らしい世界はないよ
陽気なミュージックは無職の賛美歌。
そうだ、僕は、25歳無職・橋本。
『Under the Sea』はまだまだ終わりそうにない。
-おわり-