焦りはなぜ生まれるか2
鍼灸院に向かって歩いてた時におもったこと。
生涯続けるんだろうというものに足を突っ込んでいます。
先日、絵馬に書いてきました。
心身ともに健やかな鍼灸師になる、と。
(こんなの一度も書いた事ない笑)
一生勉強だよ、なんて先生方が教壇で言われて、周りの身構える空気にそのまま乗っかっていきそうだったけれども。
ふと思うと、私は詰め込みすぎる。
すべて今ここで掴める気持ちになってしまう。
(多分)焦っている顔をしていると先生たちに、そりゃ君より何年も多くやってるんだからあと笑われます。
先生方の言葉にある潔さを身につけるのには、まだまだかかるのですよ。うんうん。
でもよく考えると、もうそんな事思わないとしても、ずっと勉強することになるのだから。
好きなものとか素敵だなあと思ったものを薄く薄く重ねる気持ちで取り組めばいいんだなあと、歩きながら、なんとなくそんな感情になるのでした。
いままでは会社ベースで其々の場で足し算するように意識してきたけど、この軸があるというのは、私にとっては有難いのかも。
いつ死ぬか分からないのは置いておくとしても、その時まで私という個体はあり続けるから、その時になんかいい感じになってれば良い。
死ぬと分かれば勉強をまず置いて、その時にしたいことをするしかないのだろうなあ。
あとこの間、先生と話をしてて、確かにと思ったこと。わたしが一度社会人やってからの学生だから気楽なはずなんですけどね、と言ったら。
でも学生って社会人以上に、空き時間をどう過ごすか自分次第みたいな所あるから、意外とずっと緊張するものな気もするよねエって。
逆に社会人になると、休む時休まないとパフォーマンス下がるからそれも含めてみたいなとこあるし。と。
遊ぶ時には遊ばないと、ですね。
もう全肯定して生きていきたいです。
わたしは明日、音に触れてきます。
適度に発散して休みを過ごそうと思います。