(112)栄山江流域にあった倭人の國

112黄金の王冠

藩南面新村里9号墳から出土した黄金の冠

4世紀末から5世紀の倭地は群雄割拠・合従連衡の戦国時代で、ヤマト王権は朝鮮半島に軍兵を送るような余裕はなかった――としたら、好太王碑文の「倭」はどこからやってきたのか、というのが本節のテーマです。

『三國史記』に載っている記事が、すべて史実であるとは思えないにしても、といってすべてを創作、架空とすることはできません。「倭人が飢えて救いを求めてきた」とか「海浜の村を襲撃して略奪を繰り返した」とか、妙にリアリティを持っています。数少ない貴重な史料ですから、その扱いは慎重でなければなりません。

すでに書いたように、本稿では『三國史記』における倭、倭人関連記事から"傾向"を読み取るようにしています。それによると、紀元1~2世紀の倭人は海からやってきて、新羅(弁辰ないし辰韓)の海浜集落に対して、「倭寇」的ないし海賊的な侵略行為を行っています。

邑國的権力組織との交流(規模の大小はともあれ「国交」といっていいかもしれません)が始まるのは2世紀末から3世紀です。その場合は「倭」「倭国」と言っています。対して暴力的な行為は「倭人」という表記を使っています。そこから読み取ることができるのは、『三國史記』に見える「倭人」は韓地の内に住んでいたのではないか、ということでした。

これに関連して、朝鮮半島南西部の栄山江流域には倭地独自の墳墓形態である前方後円墳、巨大甕棺墓、九州式の横穴式石室など倭人系の墳墓が多数出土している、という情報があります。それは当時の百済系、新羅系、加耶系の様式とは大きく異なっている、というのです。韓国では「馬韓文化」と呼んでいるそうですが、「ここに倭人の国があった」と主張する研究者も少なくないようです。

注目すべきなのは、羅州市藩南面新村里の9号墳から出土した黄金(金銅製)の王冠と靴です。1917年(大正六)年から2年がかりで行われた発掘調査で、石棺の頭部と足部から発見され、現在は韓国の国宝に指定されています。百済國で製作され、百済王から下賜されたとされているようですが、それはともかくとして、この地に「王」がいたことは間違いありません。

栄山江は全長116km、全羅南道を流れ木浦港で黄海に注いでいます。その流域面積は5210平方kmで、福岡県(4987平方km)がすっぽり入ります。人口収容力と農業生産力は筑紫全域に匹敵するのです。

また栄山江の沖合は紅島、珍島、莞島などから成る多島海です。莞島から20km隔てて済州島(古代名は「耽羅」國)、済州島から東南東100kmが五島列島、東北東150kmが対馬、壱岐という位置関係です。多島海は倭人にとって絶好のロケーションだったことでしょう。

『書紀』はヤマト王統の正統性を強調し、倭族の本流であり宗家だと主張します。その立場から栄山江流域の「倭国」を「任那」と呼び、ずっと昔からヤマト王権の植民地だったように描いています。

好太王碑文にも「任那加羅」の文字が見えています。高句麗は、任那(全羅南道)と加羅(慶尚南道)を一体で、「倭」「倭国」ととらえていたように思えます。

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