(165)朝貢の目的はどう変わったか

165長寿王墳墓RAKUDA通信

長寿王墳墓(RAKUDA通信)

 5世紀の倭国の王権は、何を目的に華夏帝国(宋)に朝貢したのでしょうか。『宋書』によると、「倭の五王」は叙爵に強いこだわりを見せているようですが、それは何故だったのでしょう。

 邪馬壹国・卑弥呼女王の朝貢は、華夏人が開設した交易場に倭人の商人が出入りするためでした。華夏の皇帝から公認された「親魏倭王」の印影(封泥)があれば、華夏人の市場で取引ができたのです。

 倭人は漁撈を営みつつ、渤海から東シナ海にかけての物流と交易を担う海洋民でした。華夏の交易市場への出入りが公認されれば、巨万の富が約束されたのと同然でした。

 4世紀、華北に匈奴族や鮮卑族の帝国が成立すると華夏は黄河以北の交易市場を失い、南北交易における倭人の役割が大きくなりました。華北は華南の物品を、華南は華北の物産をそれぞれに求めたので、海を自在に往来する倭人が主導権を握ったのです。倭人は華夏皇帝の公認を得る必要がなくなりました。

 匈奴族や鮮卑族と修好関係にあった高句麗が華南と華北を結ぶ物流と交易に割り込んできたのが4世紀後半です。遼東半島と山東半島を掌握すれば、渤海と黄海を遮断することができ、華北の物産にかかる物流と交易から倭人を排除できます。

 そこに百済、新羅が絡まって事情が複雑に縺れ合い、埒が明かないところまで煮詰まって、ついに起こったのが高倭戦争(392~400)ということになります。この戦争は倭讃が王城を対馬海峡の南側に移したことによって、勝敗がつかないまま自然停戦となりました。

 義熙九年(413)のこと、高句麗と倭がそろって晋(東晋)に朝貢しています。『三國史記』高句麗本紀の長寿王元年条「遣長史高翼入晋 奉表獻赭白馬 安帝封王高句麗王楽安郡公」(長史の高翼を遣はし晋に入り、表を奉じ赭白馬を獻ず。安帝は王(長寿王)を高句麗王楽安郡公に封ず)が合致します。使者に高翼は「高」姓なので王族ですから、高句麗はこの遣使朝貢に相当力を入れたことが分かります。

 これに対して『書紀』はホムダ大王二十八年秋九月条に、「高麗王遣使朝貢因以上表 其表曰高麗王教日本國也 時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使 以表狀無禮 則破其表」と記します。

 高倭の関係は和議を結ぶ寸前まで改善されながら、菟道稚郎子(宇治天皇)の短慮で破談になっています。そこで高句麗は高倭戦争で捕らえた倭軍の高位者を「倭国使」に仕立てて晋に同道させたのかもしれません。長寿王が「表を奉じた」のは、宗主国である宋に、調停を願い出たとも考えられます。

 ともあれ倭讃が宋に使者を送った永初二年(421)は、高倭戦争の当事者が亡くなって、戦争が「過去の出来事」になったときでした。華北と華南の物流・交易は、すでに王権の存在を左右するテーマではなくなっていたはずです。現代風にいうと、物流・交易は民・民の生業に委ねられるようになっていたのです。

 宋もまた、華夏の「王道」を教導することこそ天命と解した節があります。周辺異族の族長を叙爵したのもその表れですし、だからこそ倭王武は上表文で「王道」を強調したのでしょう。その流れでいうと、倭讃は宋に留学生を送り込んで行政実務に就かせたり、宮廷の書庫で古文書を筆写させることで華夏の国家観を学ばせたのではないか、という想像が働きます。

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