(171)『梁書』は研究の俎上に乗っていない
愛媛県指定文化財「扶桑木」(伊予市森海岸)
5世紀の倭国ないし倭地に仏教が伝わっていたことを記しているのは『梁書』です。倭もしくは倭国については、武帝紀の天監元年条に「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」のほか目新しい情報がないので、研究の俎上に乗っていないようです。
西暦502年から557年まで4代55年間続いた梁王朝の出来事を描いた史書で、陳(皇帝は陳氏、557~589)の宮廷官僚で学者でもあった姚察(533~606)が筆を起こし、その子の姚思廉(557~637)が唐の貞観三年(629)に完成させました。梁が滅亡した72年後のことですが、編著者にとってはまさに現代史です。
確かに『梁書』は倭、倭人、倭国について、新しい情報を載せていません。倭王との接触がなかったためです。なぜ倭王との接触がなかったのかは前節で触れました。
ところが倭人との往来はあったようで、その記録が巻第五十四列傳第四十八「諸夷」に残っています。ただ皇帝の蕭氏が倭王を出入り禁止にしていたので、梁の宮廷吏僚は「倭」という文字を公にすることができませんでした。それと梁王朝にコンタクトしたのは倭王の支配下にない倭人だったので、「文身國」「扶桑國」という表記になっています。
倭人は太伯の後裔で「男子無大小皆黥面文身」(男子は大人と子どもの区別なくみな黥面文身)、または夏王朝第6代少康の庶子の後裔で「斷髮文身以避蛟龍之害」(断髪文身して蛟龍の害を避く)というのは、華夏宮廷知識人にあっては常識でした。「文身」といえば倭人のことです。
その記事は「文身國在倭國東北七千餘里」で始まります。漢時の1里430mで計算すると3千kmを超えますが、倭地における1里65~70mであれば500kmです。グーグルマップで日本地図を歩くと、福岡市から鳥取市か姫路市、奈良市から長岡市か佐野市に到達します。
梁の時代(6世紀)、倭國の王城は奈良盆地にあったと推定されますので、「文身國」は越後か関東平野です。『書紀』がいう「蝦夷」の世界です。体に獣のような文様があるとか額に3文字の入墨をしているといった記事のあと、 人家はあるが城郭はない、王がいて居所を「金銀珍麗」で飾っている、というようなことが出ています。
本稿にとって興味深いのは、「文身國」の記事内容ではありません。梁王朝はちゃんと倭人を視野にとらえていた(倭人が梁王朝と往来していた)と理解できる、そういう可能性があることが重要です。
もう1つの「扶桑國」は「在昔未聞也」(昔未だ聞くものなし)で始まります。姚察(または姚思廉)は、「扶桑國を記事にするのは本書が初めてである」と自慢しています。「扶桑」は西暦紀元前後に成立したとされる『山海経』から華夏の文献に登場していますが、いずれも伝説の地の扱いでした。
それによると東海のかなたに「扶桑樹」がそびえる国があって、そこから太陽が昇ると考えられていました。蓬莱、瀛州、方丈の三神仙の総元締めのような存在です。これに対して『梁書』は実在の国だと主張しています。
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