(161)倭人の習俗を侮蔑した瞬間

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ウコクの女王

 紀元5世紀の後半から6世紀の初頭にかけてのころ、倭国の王統は「自分たちはもう蛮夷の族ではない」と考えるようになった――というのは、『宋書』倭王武の上表文からの推測です。そんなのはお前の勝手な推測に過ぎない、と言われればそれ切りですが、まんざら論拠がないわけではありません。

 それは倭人が倭人たる文身断髪、なかんずく文身の習俗です。「魏志倭人伝」が強調しているように、3世紀の倭人の男子は大小尊卑の差なく、「黥面文身」を施していたとされています。「黥面」は顔に入墨を入れること、「文身」は皮膚に傷をつけて文様状に盛り上がらせることを指すようです。

 これに対して、イナセな江戸っ子が「てやんでぇ、ちっとも痛かねぇや」と粋がって背中に般若の面や昇竜の絵柄を入れるのは「刺青」と書き分けます。近現代の刺青は多色ですが、「黥」は黒・青で、これに火山性岩石(リモナイト)を原材料とする朱色の泥粉を重ねました。文様は左右対称の渦紋や蕨紋で構成されていたようです。縄文土器や青銅器の文様が顔や体に彫り込まれていたと考えていいでしょう。

 上古代は衣服がシンプルで、のちの時代のように金属や玉石を加工する技術がありませんでした。黥や文身は「以避蛟龍之害」(以って蛟龍の害を避く)や疫病に罹患しないといった迷信だけでなく、文様のパターンが同種同族の証、個人の識別子であり、同時に装飾でもありました。

 華夏においても、のちに呉、越、楚などと表記される荊州の人々に特徴的な習俗でしたし、日本列島で出土する縄文の土偶に黥や文身の形跡が認められます。さらに世界に目を広げると、1991年にアルプス山中の渓谷で発見されたアイスマン(紀元前3300年ごろの男性ミイラ)、1993年にカザフスタン・モンゴル国境付近で発見された2500年前の女性のミイラ「ウコクの女王」(アルタイ王女とも)も黥をしていたことが分かっています。

 邪馬壹国の卑弥呼女王や狗奴國の卑弥弓呼王、伊都國王や魏に使いした難升米も皆、顔や体に豪勢な黥をしていたに違いありません。「魏志倭人伝」が身分によって違いがあったと伝えるのは、支配階級は黥、被支配階級は文身だったということのように思えます。その延長線上でいえば、アマテラスもイハレヒコ(神武)も黥をしていたことになります。

 ところが『書紀』によると、第17代大王イザホワケ(履中)元年夏四月条に、「詔之曰 汝與仲皇子共謀逆 將傾國家罪當于死 然垂大恩而兔死科墨」の文言が出てきます。仲王子とともに謀反を起こそうとした阿曇連浜子に、「お前には大きな恩があるので死は免じ、墨(ヒタヒキザムツミ)を科すことにする」と大王が言った、というのです。

 阿曇連浜子は即日、目の周りに黥を施され、これをきっかけに黥を「阿曇目」と呼ぶようになった、というエピソードです。阿曇連は倭人の族長です。そもそもの習俗として黥面文身を施していたでしょうから、ちょっと不思議な話です。

 ではあるのですが、「黥」が刑罰として描かれています。『書紀』はヤマト王統が倭人の習俗を侮蔑した瞬間をとらえていました。

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