(93)「夏」王統は周防灘を渡った
関門海峡(Wikipedia)
「辰國」は『史記』『漢書』に伝説の国として登場しています。前漢の武帝が置いた朝鮮4郡のうち「真番」が後世の「辰韓」のことではないかと考える人もいますし、筆写を繰り返すなかで生まれた誤記で、実在ではないという見る向きもあります。
本稿は既存の諸説に類推と想像を重ねたらどうなるかーーなので、「辰王」が山口県に渡って「秦王」國を建て、それが訛って「周防」になったとしたほうが面白いと考えています。その仮定に立つと、西暦246年、海峡をはさんだ倭地の東側は緊張が一気に高まりました。
関門海峡は最も狭いところで500mしかありません。しかし岩礁が多く、潮流は最高10ノット/時(18.5km/時)と対馬海流の10倍、海面からいきなり山丘が立ち上がっています。このため筑紫側に直接の影響があったとは思われません。
ここで『書紀』に記録される魁帥「夏磯媛」が思い出されます。彼女は周芳娑麼(スホウのサバ=山口県防府市佐波)でオシロワケ大王(景行)を待ち受け、菟狹(ウサ)に上陸すれば高羽(タカハ=豊前国田河郡)に至ることができる、と告げています。
「夏磯」は「ナツソ」と読み、「ソ=熊襲」の女酋ということになっています。ですがオシロワケ大王が夏磯媛の様子を探らせたのは物部君の祖である「夏花」(ナツハナ)でしたし、オキナガタラシ媛(神功)紀でも周芳娑麼で「夏羽」(ナツウ)が出迎えています。
「ナツソ」の「ソ」を取り出して熊襲と結びつけるなら、「ハナ」「ウ」はどのように意味づければいいでしょうか。また同じように、三輪王権の「磯城」の読みは「ソキ」ではないのか、という疑問が出てきます。
熊襲と結びつけるのでなく、「夏」姓の王権が周芳娑麼のあたりを支配していたと理解するほうが自然です。そして夏磯媛がオシロワケ大王に伝えた情報は、当の夏王統が周防灘を越えて豊前国田河郡に攻め入った記憶と理解するのが自然です。「夏」姓は華夏の王朝に通意します。
『書紀』はもう1つ、ナカツヒコ大王(仲哀)紀に「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」が登場します。
「時人號五十迹手之本土曰伊蘇國」とあって、「倭人伝」の伊都國王の末裔という役回りです。ナカツヒコ大王が実在とは思えませんが、オシロワケ大王の西征後も伊都国王は存続していました。
ここでオシロワケ大王の西征に話を戻すと、菟狹の川上にいる鼻垂(ハナタリ)、御毛の川上にいる耳垂(ミミタリ)、高羽の川上にいる麻剥(アサハギ)、緑野の川上にいる土折猪折(ツチオチイオリ)を滅ぼして豊前国(トヨノクニノミチノクチノクニ)の長狹県(ナガサノアガタ)に仮宮を建てました。それでそこを「都」と名付けた、ということになっています。
豊前国田河郡は現在の福岡県添田町、川崎町に当たります。京都郡みやこ町は指呼の間にあります。248年か249年、彌呼女王の死で「卑」姓の宗教王統は途絶えたのでしょう。そのあとを受け継いだ「壹・與」女王は、やがて伊都国=青潮連合からも狗奴国=黒潮連合からも見捨てられ、ほどなく「夏」王統に滅ぼされたなら、小説としてドラマチックな展開です。