(159)荊州の蛮夷族長を描いた事情

画像1

荊州古城(Wikipedia)

 実際のところ、『梁職貢圖』を描いた(描くことを命じた)蕭繹も、そこに「倭國使」として描かれている倭人が、「倭國」が派遣してきた使者とは信じていなかったでしょう。彼がギョロ目で毛深く褐色の肌をした東南異族を「倭國使」として描いたのは、それなりに理由があったのです。

 蕭繹は十数万巻の書物を読破した当代一流の知識人で、梁の第4代皇帝(元帝)に登った人物でした。ところが本家の梁帝室は軍事基盤が脆弱で、蕭繹の実父・初代武帝(蕭衍)は太清二年(548)に発生した侯景の乱で帝都・建業の城内が戦場となり、翌年、幽閉中に憤死する有様でした。

 ちなみに華夏における城は、高い壁で囲んだ都市を指しています。高い壁で囲んださまを「囗」で表し、その中に王がいるので「囯」(囗王)、一方の「國」は「戈を以って守る領地」の表意文字です。

 現在、わたしたちが使っている「国」という漢字について、

 ――第2次大戦後の国語審議会で、クニガマエ(囗)に「王」を入れるのは民主主義に反する、という議論があった。その結果、「王」の代わりに「玉」と書くことにした。

 という話が伝わっています。内閣官房総務課事務嘱託だった木下一郎という人が残した昭和二十一年(1946)8月27日付の記録に、「尚ほ囯は王といふ字が入るのでどうかといふことであつた」とあるのがそれに当たります。歴史の検証に耐えうる公文書を残す、とはこういうことです。

 ただそれは同年11月16日に告示された「当用漢字表」に、「囗王(囯)」でなく「囗或(國)」を採用した事情であって、王の代わりに玉を採用した話ではありません。 

 実をいえば「囗玉(国)」という文字も紀元1世紀のころから使われていました。「或」の崩し字が「玉」によく似ていたので、「国」という字形が誕生したのでした。

 余談が長くなりましたが、建業の城というのは、つまり「囯」(囗王)でした。建業に侵入した反乱軍は王宮に立て籠る武帝軍を包囲し、多くの市民が犠牲になった、と伝わります。その混乱を収拾したのが、武帝の第7男で荊州刺史として江陵に居を構えていた湘東王・蕭繹でした。

 そもそも蕭氏の本貫は、長江河口の南蘭陵郡(いわゆる蘇州、現在の江蘇省常州市)でした。そこは太伯が居を定めたとされる夷蛮の地(荊州)であり、周の時代から倭人が出没した場所とされています。倭讃に始まる歴代倭王の使者も、舟山諸島から会稽に上陸し、長江をさかのぼって華夏皇帝に朝貢したのです。

 このことは、「蕭繹は倭國使を見たことがなかったので、似ても似つかぬ肖像を残した」とする指摘を否定します。むしろ彼は、異族の使節団を迎え入れる立場にありました。では、なぜギョロ目で毛深く褐色の肌をした東南異族を「倭國使」として描いたのか、です。

 蕭繹は建業に対して「自分はこんなに多くの周辺異族を従えている」と主張する必要がありました。併せて地元の族長たちに、「頼りにしているぞ」というメッセージを送る必要があったのです。「倭國使」の題記ながら、実は荊州蛮夷の族長を描いたのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?