兵庫県知事不信任 政治の劣化が生む禅問答 “前虎後狼”の蘊蓄と二元代表制のジレンマ:佃均
※本コラムは9月30日掲載の再掲です。
某日、当会の会合での会話。
——このネタ、どうします?
——世間的には大注目ですけどね。
——政治ネタは苦手なんですよ。
——衆目一致で「喝!」でしょう。
——突っ込みどころがあり過ぎてまとめにくいよね。
——じゃ見送りですか。
《注目会見を斬る》コーナーでは取り上げない空気のなか、筆者は沈黙するしかありません。経済記者シニア諸氏は専門分野を持っていて、ダボハゼのように何にでも食いつくことはありません。ではあるのですが、切り口を変えたコラムを、と思いつきました。
■多くの辞書が「一難去ってまた一難」
「このネタ」とは兵庫県の斎藤元彦知事と県議会のバトルです。9月19日夕刻、議会は斎藤知事の不信任を全会一致で決議、26日の午後、知事は失職を選ぶことを表明しました。議会解散はなくなり、30日付で知事は失職、11月に知事選となるそうです。新知事の任期は4年です。
筆者は多くの方と同じく、「失職+再選を選ぶ」と予想していました。齊藤知事は「出直し選挙」と口にしているので、焦点は対抗馬です。つい最近まで、日本維新の会、自由民主党は齊藤氏を支援していたので言い訳は苦しいことでしょう。さらに、もし齊藤氏が再選されたら、議会はどう対応するか、興味は尽きません。
で、今回は何を書くのかというと、「前門の虎、後門の狼」という故事成語についてです。
筆者は
——岩を刳り貫いた洞門。そこに潜んでいたら、前に虎、振り返ると後ろに狼……
をイメージしていました。
「挟み撃ちで進退窮まること」 「二進も三進も行かなくなること」 の意味です。
今回の騒動は、知事による内部通報つぶし疑惑に端を発しました。その後、優勝パレード寄付金と補助金バーター、あれやこれやのおねだり、県職員へのパワハラ等々の疑惑がボロボロと出てきて、知事本人の資質が問われています。
辞任すれば知事選18億円で済みますが、知事からすると辞任は疑惑を認めることを意味します。そこで失職+知事選という選択なのですが、齊藤氏が再選されて議会で再度の不信任となるとどうなるのでしょう。知事も議会もいよいよ背水の陣、このままでは動きがとれず……、「前門の虎、後門の狼」という故事成語を思いついたわけでした。叱られるかもしれませんが、県民から見たら「前門の齊藤、後門の議会」です。
■15世紀・中国の趙弼が故事を引用
ところが念のために調べてみると、「えっ?」でした。
故事ことわざ辞典、広辞苑、ウィクショナリ日本語版、コトバンク、イミダス、ピクシブ百科事典、Weblio類語辞典などは一様に「一難去ってまた一難」「災難が続くこと」の意味で「進退窮まるは誤用」と断じています。聖徳太子はいなかった、源頼朝・足利尊氏・武田信玄はこんな顔じゃなかった等々、日本史のビックリ以上の驚きでした。
ず〜と間違って使ってたのか……。
しかし知事にまつわる疑惑と醜聞、それに続く与党(日本維新の会、自由民主党)の手のひら返しと議会の空転は、県民にとっては「一難去ってまた一難」に違いありません。意味を間違って覚えていたけれど、ひらめきは的外れではなかったことにしておきます。
せっかく調べたので、「「前門の虎、後門の狼」の蘊蓄を。
その原典は、15世紀の中国・明王朝に趙弼(ちょう・ひつ:生没年未詳※)という官吏がいました。彼は学識深く、『評史』という著作に「諺曰、前門拒虎、後門進狼、此之謂与」と記しています。独創の表現ではなく、趙弼は正直に「諺曰」と故事成語の引用であることを明らかにしています。
※筆者注:Wikipedia日本語版などでは「元」となっていますが、中国「維基百科」には「成化十七年中式辛丑科三甲第六十九名進士」(1481年の科挙試験に合格して「進士」となった69人のうちの1人)とあります。
元となった諺は四文字熟語「前虎後狼」です。本来は虎と狼の挟み撃ちで進退窮まるという意味ですが、趙弼は「徐狼得虎」(一難去ってまた一難)と勘違いしたか、2つを合成し「拒」「進」の文字を加えて膨らませた。そして後世の誤解が「定説」になったのではないか、と筆者は疑っています。
それはさておき、『評史』は「諺曰」の前に「雖除竇氏、而寺人言盛」(竇氏を除くと雖も、而も寺人の言は盛り)と書いています。「寺人」は俗世を捨てた人、この場合は宦官のこと。意訳すると「竇氏を排除したといっても、宦官の発言が盛んになった」となります。
■強権改革派を謀反人として排除
趙弼が評した出来事は、後漢朝第11代桓帝(劉志:146〜168)の末期に起こった「党錮の禁」、それを背景とする大将軍・竇武(とう・ぶ:?〜168)と宦官の総元締である中常侍・曹節(そう・せつ:?〜181)の争いです。
「党錮の禁」は宮中宦官一派を「濁流」と批判した清流派の若手士大夫(官僚・文化人)を、宦官一派が弾圧した一件をいいます。166年から176年にかけて、帝都長安で清流派士大夫が官職剥奪、出仕禁止の処分を受け、都を追放された知識人が黄巾の乱(184年)の理論的正当性を組み立てます。
桓帝の後を継いだのは河間王・劉宏(第12代霊帝)でした。帝位に就いたとき劉宏は10歳だったので、桓帝の皇后・竇妙(竇太后)が垂簾聴政(摂政)を行いました。竇妙の父親が竇武です。
竇武は後漢帝室の外戚に名を連ねる名族の一員です。和帝(在位:88〜106)のとき、大将軍として大きな勲功を挙げた一族の竇憲(とう・けん:?〜92)が宦官の密告で自死させられたことから、宦官を深く恨んでいました。
大将軍として軍を掌握していた竇武は、娘を介して朝廷を動かし始めます。このとき曹節を筆頭とする宦官一派は、帝室の側用人として皇帝と官僚の接触を分断し、宮中は賄賂が飛び交う事態となっていました。
そこで竇武は曹節一派を排除しようと企みます。キーマンの殺害も辞さない強引さに、曹節は危機感を募らせます。そこで曹節は「竇武が謀反を起こそうとしているので討伐せよ」という偽の詔書で近衛軍を動かし、竇武ら改革派を滅ぼしました。これを境に宦官はますます横暴になり、朝廷の権威回復は絶望的な凋落に転じて行きます。
■モチャモチャやってる場合ではない
虎と狼を置き換えると、後漢王朝にとっては「前門の竇武、後門の曹節」というわけです。個人と個人の暗闘でなく、背後には清流派と濁流派が潜んでいました。それに対比させれば、今回の騒動には県政改革の是非ないし維新・自民vs県政自立派の対立が潜んでいるように思えます。
もちろん以上は推測、憶測の域を出るものではありません。
言いたいのは「前門の虎、後門の狼」の意は「進退窮まる」でもいいじゃないか、ということです。ただし知事の進退が窮まるのは是としても、県政と県民が身動きできなくなるのは避けなければなりません。
さらに調べると、別の解釈が浮かんできます。
後漢末、中国の北辺には鮮卑、匈奴、烏丸といった異民族が跳梁していて、隙あらば長城を越えて中原に攻め込む勢いでした。「前門の虎」は北辺の騎馬民族、「後門の狼」は宮中のゴタゴタという解釈です。
県政における「前門の虎」は少子高齢化/災害列島etcの課題、「後門の狼」は知事と職員・議会の確執。狼の侵入を許してしまった後漢朝が、竇武排除から50年後に滅びたことを考えると、モチャモチャやっている場合ではありません。そこで多少の強引さは許されるかもしれません。
■「聞く力」「語る力」の劣化が生む分断
もう一つ、「前虎後狼」には「表向きは沈着冷静、裏に回れば姑息で卑劣」という裏の意味もあります。ドラスティックな財政改革、法を遵守する姿勢、不動の信念の一方、数々の疑惑は3つ目の解釈を彷彿とさせます。「聞く力」「語る力」が伴わない「前虎後狼」は、パワハラ、カスハラ、独善、専横、ごり押しにつながります。
知事が再選されても、再選後の議会が再び不信任を決議しても、県外者にその是非を云々することはできません。強いて言えば、百条委員会は真相解明を急げ、なのですが、コトここに至っては法制度に則って淡々と進めていくしかありません。
知事も議会も県民の代表なのに、政策以前の問題で分断が起こっています。それは政治の劣化にほかならず、コミュニケーション能力の欠陥と言い換えて構いません。「門前の齊藤、後門の議会」という禅問答は、二元代表制のジレンマを示しているように思えます。
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