(150)3王朝の交代を読み取る
なんということでしょう。1日1本ペースで書いてきましたから。150日連続ということになりますね。
『書紀』が記す王統の系図
第10代ミマキイリヒコイニエ(御間城入彥五十瓊殖:崇神)に始まる「三輪王朝」をヤマト王権の第1幕とすれば、第15第ホムダ(誉田:応神)に始まる「難波王朝」は第2幕に当たります。第3幕に進む前に『書紀』の王統を確認しておきます。
「三輪王朝」はミマキイリヒコ―イクメイリヒコ(活目入彥五十狹茅:垂仁)―オシロワケ(大足彥忍代別:景行)―ワカタラシ(稚足彦:成務)―ナカツヒコ(足仲彦:仲哀)と、親子相伝で5代続きます。3代目の名(オシロワケ)が5世紀的なこと、4人目と5人目の「タラシ」が7世紀的でユニークさがなく、特に5人目の「ナカツ」は「中継ぎ」の意味であることから、3~5代の3人は架空とされています。
御間城入彦の王子ヤサカイリヒコ(八坂入彦)の息女ヤサカイリヒメ(八坂入姫)が3代目のオシロワケの妃となって4代目のワカタラシヒコ、イホキイリヒコ(五百城入彦)などを産み、五百城入彦の王子ホムダマワカ(品陀真若)の息女ナカツヒメ(仲姫)がホムダ(誉田:応神)の妃となります。そこで、御間城―八坂―八坂姫―五百城―品陀真若が本来の系図ではなかったか、と考えられています。
「入彦」「入姫」が続くので「イリ王統」とも呼ばれます。仲姫は「三輪王朝」と「難波王朝」をつなぐために設定された王女、品陀真若は誉田の写し、御間城入彦から誉田までが5代なのは、5世の孫までを皇親(継承権保有者)とした慶雲三年(706)養老律令継嗣令改訂格を適用したものです。
仲姫ばかりでなく、その夫であるホムダの生母オキナガタラシ(氣長足)姫は物語の登場人物、父親は存在していません。仲姫、氣長足姫、誉田の3人が架空の存在ということは、王朝が途絶えたということです。
では「難波王朝」はどうかというと、ワカタケル(幼武:雄略)のあとを継いだシラカ(白髮武廣國押稚日本根子:清寧)に嗣子がいなかったので、播磨から招いたオケ(弘計:顕宗)、ヲケ(億計:仁賢)の兄弟が相次いで大王位を継ぎました。億計王の没後、ワカササギ(小泊瀬稚鷦鷯:武列)が立ちますが、在位8年で早世したため、群臣が相談して越の三国からホムダ王五世の孫であるオオド(男大迹)王を招聘し、ヲケ王の娘テシラカ(手白香)王女を后として大王になってもらったことになっています。
『書紀』はワカササギが死去したとき、「小泊瀬天皇崩 元無男女可絶繼嗣」(小泊瀬天皇崩ず。元より男女(男子も女子も)無く継嗣絶つ可し)と王統が断絶したことを認めています。もっともそれよりの前、シラカが死去した時点で「難波王朝」は断絶していました。播磨から招聘されたオケ、ヲケ兄弟は、イザホワケ(去來穗別:履中)の息子イチベオシハワケ(市辺押磐)王の忘形見という設定です。
イチベ王は『播磨風土記』に「市辺天皇」と表記されていることから、ウジワキイラツコ(菟道稚郎子)=宇治天皇を先代とする「播磨王朝」の存在を指摘する向きもあるようです。「三輪王朝」は「難波王朝」との間には戦闘があって、両朝はしばらく併存しました。「難波王朝」と「播磨王朝」の間には大きな戦闘はなかったように読み取れます。