(38)奉斎神を共有する意味
弥生後期後半に銅鐸が山肌の斜面に埋められたことについて、何らかの政治的な転換があった、とする見立てがあります。破壊して埋設したケースもあるので、「鏡・剣・玉を奉斎する政治勢力から武力攻撃されたので、大慌てで山肌に隠した」というのです。
物流=交易に継続するうえで、戦いを仕掛けるのは得策ではありません。しかし世の中の人は「統一王朝」とか「東征」とかいう言葉が大好きで、「まつろわぬ」者を服従させるための戦争を勝ち抜いた。そういうストーリーを求めてしまいます。
その視点で『書紀』を読むと、初代イハレヒコ(神武)と15代ホムダワケ(応神)の2代について、九州・筑紫平野から奈良盆地に東征したことを記しています。
また12代オシロワケ(景行)と14代ナカツヒコ(仲哀)の2代には西征の記事が見えています。
このうち神器ないし祭祀にかかわる記事としては、オシロワケ紀に「周芳娑麼(山口県防府市佐波)の魁帥(賊徒の頭目)「神夏磯姫」が剣、鏡、瓊を掲げて出迎えた」とあります。またナカツヒコ紀では「岡縣主祖熊鰐」が同じ場所で鏡、剣、瓊を示しています。
さらに「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」が穴門引嶋(下関市彦島)で、ナカツヒコの一行に瓊、鏡、剣を掲げています。
「瓊」は玉のことで、特に赤い玉(赤翡翠)をいうそうです。 難しい漢字が続くので原文は省略しますが、神夏磯姫は船の舳先に三枝の木を立て、上の枝に剣、中の枝に鏡、下の枝に瓊をかけてヤマトの大王を出迎えました。
熊鰐は舳に立てた木の上の枝に鏡、中の枝に剣、下の枝に瓊でした。五十迹手は上の枝に瓊、中の枝に鏡、下の枝に剣をかけて大王を出迎えています。 上中下の順番は違いますが、共通しているのは船の舳先に木を立てて、ヤマト王権の祭器を示したということです。
相手が奉斎する神さまを共有することが、「恭順と服従の意思表示」というわけです。
瓊、鏡、剣はこの列島の住人が歴史の中で獲得してきた石、青銅、鉄の三つの素材を象徴しています。特に鏡は瓊や剣より神秘的なものに位置付けられました。むろんそれには「ヤマト王統において」という形容がつきます。
神夏磯姫や熊鰐、五十迹手が大切にした依代は剣だったかもしれず、あるいは鐸だったかもしれません。恭順と服従の意思表示かどうかは別として、相手と同じ神を奉斎するのは、自分は仲間であって警戒する必要はないことを示す意味があったのです。
強大な武力を持った大王がやってくる。抵抗しても無駄なことは分かっている。それで自分たちが奉斎する祭器を捨てて、大王と同じ祭器を掲げて恭順の意思を示すというのは、説得力があります。
もう一つ、相手が奉斎する祭器を示すことが「わたしはあなたが何者かを知っています」「あなたとわたしは同族です」の符号だったのかもしれません。海運交易の割り符のような意味合いですし、ひょっとすると本当に分家の関係だったかもしれません。
写真:越王勾踐の剣